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ハイカーのための〈歩行瞑想〉入門

#3 ジョン・カバットジンの歩行瞑想と僕のマインドフルネス

歩きながら瞑想する⁉︎ 編集長三田の〈歩行瞑想〉実践記
文:三田正明
2025.12.19
ハイカーのための〈歩行瞑想〉入門

#3 ジョン・カバットジンの歩行瞑想と僕のマインドフルネス

歩きながら瞑想する⁉︎ 編集長三田の〈歩行瞑想〉実践記
文:三田正明
2025.12.19

山と道JOURNAL編集長の三田正明が「歩く瞑想」をリサーチすると共に身をもって実践、その体験記をシェアしていく全3回の連載の最終回です。

歩く瞑想を深掘りするうちに、マインドフルネスという大海に出くわしてしまった当連載ですが、今回はティク・ナット・ハンと並ぶもうひとりのマインドフルネスの提唱者、ジョン・カバットジンの歩行瞑想メソッドの紹介と実践と共に、これまでの実践のひとまずのまとめをお届けします。

最後は思わず筆者の志向が出て、何やら壮大な結末に辿り着きますが、まあこれはこれ。100人いれば100通りの歩行瞑想があるはずなので、本稿を読んで興味を持たれた方は、ぜひここまで紹介してきたティク・ナット・ハンやジョン・カバットジンの著作などを参考にしつつ、今すぐ歩行瞑想を始めてみてください。

いつだってどこでだって、立ち上がって歩き出せば、それはすでに歩行瞑想の実践ですから!

MBSRの4つの実践

さて、ようやくジョン・カバットジンの様々なマインドフルネス瞑想法の紹介に入っていくわけだが、彼の提唱するMBSR(Mindfulness-based stress reduction)は、主に以下の4つの実践……自分の存在を感じるための「静座瞑想法」、心と体をリラックスさせるための「ヨーガ瞑想法」、自分の体を感じるための「ボディスキャン」、そして日常生活の中で自分を取り戻すための「歩行瞑想法」があり、これらを組み合わせて8週間のプログラムを組むのが、彼のマインドフルネスセンターで実際に患者に行われていることなのだという。

まずひとつ目の「静座瞑想法」は、ようはティク・ナット・ハンの「座る瞑想」と同じように、自分の呼吸に意識を向ける瞑想である。ジョン・カバットジンは、そこからさらに体にも意識を広げたり、周囲の音に集中してみたり、次々に浮かんでくる想いに逆に意識を向けてみたりと、段階ごとに様々な瞑想法を紹介しているのだが、長くなるのでここでは割愛する。

そしてふたつ目の「ヨーガ瞑想法」は、ティク・ナット・ハンのマインドフルネスには全く出てこなかった要素だ。ティク・ナット・ハンは基本的に仏教をベースとしているので、本来であればヒンドゥー教にルーツがあるヨーガとは相容れないはずなので、この宗教的な曖昧さはジョン・カバットジンならではのものだろう。ここでは、自分の体と過ごす時間を作ることで、心と体が一体になった経験を得るために行われるという。

そして3つ目の「ボディスキャン」は、ジョン・カバットジンのMBSRの中核的な実践であり、ヴィパッサナー瞑想からの直接的な影響を感じる部分でもある。ボディ・スキャンとは、つま先から頭の先まで、またはその逆方向に向けて、体の部位を一つひとつゆっくりスキャンするように注意を向け、息がその部位から出入りしていることをイメージしながら、温かさ、冷たさ、こり、圧力、しびれ、何も感じないなど、良い・悪いの判断をせず、そのまま観察するというもので、これは正に、ヴィパッサナーで行うことそのものではないのか(僕自身はヴィパッサナーを体験したことありませんが)。

ボディスキャンについては、ここで多くを語るとまた長くなるので端折るが、ChatGPTなどでもやり方を教えてくれるし、10分程度のボディスキャン音声ガイド風スクリプトなども作ってくれたりするので、興味のある人はぜひ調べてみてほしい。ボディスキャンを睡眠導入の方法として紹介しているページもあったりするので、そういった活用から始めてみるのもアリだと思う。

本稿のMBSRの解説は、すべて『マインドフルネスストレス低減法』によります。

そして4つ目が、いよいよ本稿の本題である「歩行瞑想法」なのだが、ここまで読み進めてきて気づいたのが、カバットジンのマインドフルネスには、ティク・ナット・ハンがあれほど大事にしていたチャンティングが一切出てこないし、もちろん微笑みも出てこないのだ。そしてそれは歩行瞑想においても同じことで、カバットジンのそれは、とにかくまず足の感覚に意識を向けろという。あれだけティク・ナット・ハンが「歩行瞑想は呼吸に歩みを合わせる。その逆はありません」と言っていたのに!

”歩行瞑想法は、歩くという体験に注意を向けるトレーニングです。足の感覚、あるいは体全体の動きに注意を集中します。歩きながら、呼吸に注意を向けることもできます。

歩行瞑想法は、まず地面に着けたほうの足に十分に注意を集中することから始まります。地面に着いた足に徐々に体重がかかり、それにつれてもう一方の足が上がり、前方に動き、また地面に降ります。この動きが繰り返されるわけです。これまでにご説明した方法と同じように、歩行瞑想法でも、心が足から離れたり、歩いているという感覚から離れてさ迷い出したことに気がついたら、すみやかに意識を歩くことに戻してください。歩いているときは、周りの景色を眺めたりせずに、視線を前方に固定してください。これは、集中力を高めるためです。(中略)歩行瞑想法は、外部の観察ではなく、歩くという、自分の内部から生じてくる感じを観察する力を養うためのトレーニングなのです。”(『マインドフルネスストレス低減法』春木豊 訳 北大路書房 刊より)

ティク・ナット・ハンと言っていることが180°に近いほど違うのだけど、ともあれ#2で紹介した「マインドフルネス瞑想法の7箇条」に則り、自分で評価を下さず、まずカバットジンの歩行瞑想を受け入れてみることにしよう。

カバットジンは、歩くことに意識を集中するために、部屋の中をぐるぐる歩きまわったり、細い道を行ったり来たりするのが良いという。最初のうちは足先と足に集中することから始め、これができるようになったら、歩いている体全体の感覚を意識するのだとか。また、集中力を維持するためには、体の中で注意を集中する部分を1箇所に決めておくとよいという。まあ、とにかく実践だ。さっそくいつもの歩行瞑想に取り入れてみることにする。

ジョン・カバットジンの歩行瞑想

いつもの緑地で散歩開始。1歩目から足を蹴り出し、着地し、また蹴り出しを、とにかくゆっくり、ひとつひとつの動きに意識を向けようとしながら歩いてみる。だが、これがかなり難しく、体がフラフラしてしまう。てか、スピードが極端にゆっくりだと歩くのってこんなに難しいのか!
 
いくらなんでも歩きにくいし、さすがにこんなにゆっくり歩いていると病人のようで、周囲の目も気になる。なのでカバットジンも屋内での歩行瞑想を勧めていたのか。足裏の感覚に集中しながら歩けるギリギリまでペースを上げてみる。靴がソールの薄いベアフットシューズなので(ちなみに、自分は歩行瞑想にビボベアフット、ルナサンダル、ジョー・ニンブルなどのベアフット系シューズで臨んでいる)、足裏に地面の感覚をガンガンに感じる。こうして一歩ごとに「意識を集中して」歩いてみると、あらためて地面には土だったり、葉っぱだったり、木だったりと様々な感触があることに気づく。また斜めっていたり凸凹していたりと、まったく平坦でない。こんな場所をスイスイ歩ける人間って、結構すごいのではないかとさえ思う。

そういえばAI搭載のヒト形ロボットは、まだ2本足で立っているだけでバランス調整に大量の演算が必要で、それでバッテリーがすぐになくなってしまうことが技術的なハードルだと聞いたことがあるな……そんなことを考えた、ということを意識して、また足裏に感覚を集中させる。様々な地面の感触や形を味わっていると、だんだん意識が足裏から足そのものに移ってきた。一足ごとに足が着地し、地面をつかみ、屈折し、蹴り出す。この足の動きに意識を集中するのは気持ちがよく、もっと足で地面を掴みたくなる。

それを続けていると、今度は脚全体の動き、いやさ、いま歩いている体全体の動きに意識が移ってきた。今更ながら、歩くという行為は下半身のみによって歩くのではなく、体全体を使って歩いているのだということに気づく。そういえばカバットジンも「最初は足に集中することから始め、できるようになったら体全体の感覚を意識する」と言っていたな。ここまでは、足の感覚に集中しようと手を後ろで組んでゆっくり歩いていたけれど、思わず手をほどいた。もっとペースを上げて、腕を振りながら全身運動として歩きたくなってきた。

胸を張って背筋を延ばし、骨盤の上に腹〜背骨〜頭が一直線に乗っていることをイメージしてみる。肩を開き腕を振ると、振り子のようにそれが推進力となり、腕を振るだけで体が勝手に進んでいくような気さえする。気がつくと、動かしている体の部位の隅々まで意識を向けながら歩けている気がした。こうなってくると、次は呼吸にも意識を広げたくなってきた。そこに意識を向けてみると、これまでの練習の成果か、呼吸にもすっと意識を広げられた。歩くペースに合わせて深呼吸をし、鼻から喉、さらに肺や心臓にまで意識を広げてみる。

すると全身運動としての歩行と呼吸、つまり、僕が「今」やっていることの隅々にまで意識を向けられている感覚になった。そして歩行と呼吸はそれぞれ別の行為ではなく、まさに一体の行為であることを感じた。その状態が心地よく、自然と笑顔になってくる。こ、これぞマインドフルネス⁉︎

でも、そんな状態は長く続かなかった。考えも次々にやってきて、体の隅々まで張り巡らされたはずの意識も、どこかに行ってしまった。ちょっとハイになり過ぎてしまったようだ。落ち着こう。ふたたび呼吸に意識を向け、ティク・ナット・ハン・スタイルの歩行瞑想に切り替えてみる。今度はゆったりとピースな気分になり、その日の散歩はそのままティク・ナット・ハン・スタイルで終えた。

なるほど、「呼吸に合わせる」ティク・ナット・ハンと「足裏の感覚に集中する」ジョン・カバットジンと、どっちのスタイルが正しいとか正しくないとかではなくて、組み合わせれば良いじゃないか。むしろ、それぞれ体感できることが少し違うのも面白いし、マンネリを回避することもできそうだ。

Illustration: KOH BODY

僕の歩行瞑想

とまあ、こんな感じでひとまず僕の歩行瞑想のスタイルは完成した。

場所は、ルーティンワークとしては朝、家の近所で30分〜45分ほど。それができないときは、昼に職場のまわりを15分〜20分歩くか、夕方に30分ほど。また徒歩で移動中、1分でも5分でも、できそうなときにはいつでもやる。でも、まったくできなかった日ももちろんある。

やり方は呼吸とカウントとチャンティングのティク・ナット・ハン・スタイルを基本に、4/4拍子で呼吸と歩行を合わせ、「1、2、3、4」とカウントするか、「吸っている 吐いている  受け入れる 手放す」とチャンティングする。または、それらをすべて手放してカバットジン・スタイルで足裏の感覚に集中しながら歩くか、もしくは、それらすべてを組み合わせる。

ともあれ、いつだって良い感じに瞑想状態に入れるわけでもない。思いや考えが次々にやってきて、呼吸や歩行に一向に集中できないときもある(特に休み明けの朝などは、その日やその週にやるべきことで頭がいっぱいだ)。

でも、そんなときこそ#2で紹介したカバットジンの7箇条である。良い悪いを自分で判断しない。結果にとらわれず、受け入れる。ただのお散歩になる日があってもいいじゃないか。歩かないよりは歩いた方がマシだ。とにかく続けることが鍵だ。 実際、始めた頃に比べると、今ではスムーズに呼吸や歩行や足裏の感覚に意識を向けられるようになってきた。やはり継続は力なりだ。歩行瞑想は肉体的な負荷が低いので、続けやすいところも好きだ。

もっとも、歩行瞑想を始める前と後で、自分の中で何かが変わったかと聞かれたら、それはよくわからない。わからないけれど、これはそんなに早く答えや結果の出るものではないだろうということはわかる。とにかく続けること。この感覚を自分の中に定着させること。でも、実践を数ヶ月続けてみて、すでに様々な発見があったことも事実だ。

たとえば、僕の散歩コースには、いつも同じ時間に歩いているご老人やご婦人がいる。彼らはいつも歩くことにとても集中しながら、自分のスタイルで黙々と、雨の日も風の日も、夏も冬も歩いている。これまでは彼らを見ても、「きっと健康維持のために歩いてるんだな」くらいにしか思っていなかったが、いや、きっと彼らにとっても歩くことはそれ自体が喜びであり、楽しみであり、彼らは彼らなりの歩行瞑想をして、マインドフルネス的な何かを感じているはずだと思うようになった。

近所を毎日散歩するご婦人にも、親近感とリスペクトを感じるようになった。

マインドフルネスといえば、散歩中に犬を見ても、彼らはつくづくその一瞬一瞬に全力で生きていて、マインドフルネスを体現している存在だなと感じるようになった。そんなことを言えば、家の近所の森の中を走り回っている台湾リスや小鳥たち、カモやタヌキやアライグマなんかも、あらためて未来でも過去でもなく、この瞬間だけに全力で、マインドフルネスに生きているではないか。

さらに言えば、この周りの木々や緑だってまさにマインドフルネスだ。せっせと葉で日を受け、根から水を吸い上げ、二酸化炭素を取り込んで光合成し、季節ごとにその姿形を変えながら、この一瞬一瞬を生きている。

ひたすら呼吸に集中しながら森の中を歩いていると、自分も彼らも、実はたいして変わらないのではないかと感じるときがある。木々や緑が光合成しているように僕たちは呼吸して、酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出している。植物たちが光合成することでこの生態系の中での役割を果たしているならば、人間だって同じだ。HIKING AS LIBERAL ARTSの#4でDONI君が言っていたように、呼吸をしている時点で僕たちは世界と繋がっているのだ。

みんな何かを求めて苦しくなったり、何者かになりたくもがいたりしてるけど、僕たちはみんな、本当はただここで呼吸をしているだけで、この世界にいる意味があるのではないか? もしかしてそれに気づくために、僕は呼吸のことばかり考えているのか⁉︎

紅葉に染まる木々も、緑も、羽虫たちも、みんなこの一瞬一瞬を生きている。 Photography: Masaaki Mita

僕のマインドフルネス

長々と綴ってきたけれど、そろそろまとめに入りたい。そういえば、ここまで「ハイカーのための」と銘打ちながら、まったく山での実践の話がなかったので最後に触れておこう。

ハイキングしながらの歩行瞑想は、もちろんできる。平坦で歩きやすいトレイルに出くわしたときに実践してみると、僕は普段以上に自然との一体感を感じることができた。また、長く退屈な林道歩きなどでも、歩行瞑想は大きな力になるだろう。

でも、急斜面やガレ場や岩場などが連続する場面では、正直瞑想どころではない。ただ、そのような場面ではトレイルを歩くことに100%集中しているので、マインドフルネスな状態であるとも言える。

荷物が重すぎるときや、疲労困憊した後なども瞑想どころではない。歩行瞑想には荷物は軽ければ軽いほど良いので、そういった意味ではULハイキングは向いているが、空身で歩ければそれに越したことはない。

つまるところ、「歩く」という行為のある所はすべて歩行瞑想の実践の場なのだ。なので、ハイキングもまたその実践の場であることは間違いない。

とまあ、偉そうなことを綴らせてもらってきたが、相変わらず僕は僕だし、酒もタバコも大好きだし、些細なことにイラついたり、どうでもいい情報や考えに翻弄されたりしている。以前よりは意味なくスマートフォンを眺める時間は減ったし、考えや情報の激流の中で冷静になる瞬間は増えたかなとは思うけど、やっぱり僕は僕のままだ。だからこそ、良い悪いを自分で判断せず、とにかく続けること。結果にとらわれず、受け入れ、手放すこと。

そして歩行瞑想の実践は、気づくとマインドフルネスの実践でもあった。マインドフルネスとは何か、歩行瞑想の実践を通じて感じた、僕なりの現時点での感想を言わせてもらうならば 「今を生きる」ということに尽きる。

僕たちは今を生きていながら、多くの場合、そこに意識を向けられないでいる。なので呼吸に意識を向けたり、自分の体や心を感じてみたり、歩くことに集中したりすることで、今、この一瞬一瞬に意識を向けていけるよう、自分をチューニングしていくのがマインドフルネスだと僕は捉えている。

何のために? この世界にいま生きて、息をして、歩いて、存在している喜びを感じるために。

ここまで書いてきて、ハイキングとは丸ごとマインドフルネスな行為であることに気がついた。山を歩いている時、僕たちは下界と切り離され、完全にその体験に没入している。一歩一歩前へと進むことや、どこで眠るか、何を食べるかしか考えていない。そんな無我夢中になる瞬間、「今を生きている」実感に触れたくて、そもそも僕たちはハイキングをしているのではないか。

歩きながら、深く呼吸と歩行に集中できているときに風が吹いて、ふとあたりを見渡すと、景色がびっくりするくらいにクリアに飛び込んできて、その美しさに、思わず胸がいっぱいになるときがある。そんなとき、僕はやっぱり生きてるのって、歩くのって最高だなって思うのだ。

Peace is every step !

三田 正明

三田 正明

フォトグラファーとしてカルチャー誌や音楽誌で活動する傍、旅に傾倒。 多くの国を放浪するなかで自然の雄大さに惹かれ、自然と触れ合う方法として山に登り始める。 気がつけばアウトドア誌で仕事をするようになり、ライター仕事も増え、現在では本業がわからない状態に。 アウトドア・ライターとしてはULハイキングをライフワークとして追い続けている。 取材活動のなかで出会った山と道・夏目彰氏と何度も山に行ったり、インタビュー取材を行ったり、酒を酌み交わしたりするうちに、いつの間にかこのようなポジションに。 山と道JOURNALSを通じて日本のハイキング・カルチャーの発展に微力ながら貢献したいと考えている。