山と道HLCディレクターの豊嶋秀樹をホストに、身体行為としてのハイキングをリベラルアーツ(固定概念や常識から解放され、自らの価値基準で自由に行動できるようになるための学問)として捉え、同じく身体行為である「見る」ことや「聞く」こと、「食べる」ことなどを手掛かりに、ハイキングのその先にある価値と可能性を探っていく連載『HIKING AS LIBERAL ARTS』。
アートを深く観察(ディープ・ルッキング)することで凝り固まった現実をときほぐす方法論に迫った『DEEP LOOKING 想像力を蘇らせる深い観察のガイド』(AIT Press)著者で、インディペンデント・キュレーターのロジャー・マクドナルドさんをゲストに迎えた連載第1回の後編となる今回では、山水画の絵師たちや禅、プラントベースホールフードなどのトピックを通過し、これからの「危機の時代」を生き抜くために何が必要かまで話が進んでいく。ロジャーさんの話に、ぜひディープに耳を傾けてほしい。
アグネス・マーティンとソローと山水画の絵師
ーー『DEEP LOOKING』の中で、「ディープ・ルッキング」の実践のためにアーティストを6人あげ、それぞれのアーティストについてわかりやすく説明されているのがすごく面白いんですけど、その中でもアグネス・マーティン(*1)を語る上で超絶主義のヘンリー・D・ソロー(*2)の話が結構出てきますね。ULハイキングは彼のDNAを大いに受け継いでいると思うんです。
ソローはまさにカウンターカルチャーですよね。ソローを含む超絶主義の作家たちは一人ひとりの内側の奥深くに人間の領域を越える存在があると考えて、アメリカの大自然の中で素朴に暮らしながら、自己を深く掘り下げていく生き方を追求したわけですけど、ULハイキングのDNAと言われれば、確かにそうですよね。
本の中で中国の宋時代の山水画を紹介しているのですが、約1000年前の山水画の絵師たちはみんな超ULハイカーだと思います。あの時代の絵師たちの多くは、絵を描くために相当な時間を、ただ山をさまよっていたんですね。山の風景、季節の移ろい、気候の変化をずっと観察してインプットしてから描きはじめるんです。実は山水画で描かれている風景って写生ではなく空想の風景なんですよ。実際に存在してない山。無数の風景をミックスして、モンタージュ化して描いていたんです。
私は絵師たちは漢方薬の専門家だったと思っています。山水画はタオイズムの教えとも連動していて、そこでは漢方学がすごく大事なんです。そういう知恵もあってサバイバルもできたから、ほとんど何も持たずに山の中を歩いて、それを絵に描くということをやっていたんです。東洋の中でULのひとつの原型があるとしたら、宋時代の絵師たちは面白いなと思っています。
ーー日本の山も僧侶たちが最初に歩いて開拓していったんでしょうね。
忍者も山歩きと関係しますよね。私が暮らす長野県佐久市の望月という地域は、実は忍術の発祥の地のひとつとされているんです。戦国時代頃だと思うのですが、望月にいた忍者の誰かが有名な大名を薬草学で救ったみたいで、そのお返しに伊賀に土地をいただいて、望月から何人かの家族が移住したっていう歴史があるんです。
薬草学を学んだ忍者、いわゆるシャーマンに近い人たちですよね。彼らも薬草を取るためには山道をよく知らないと行けないじゃないですか。そんなわけで、忍術と山歩きの関係も強くあるなと思っています。
*1 アグネス・マーティン (1912-2004年)
カナダ生まれ。幾何学的な抽象画で知られる画家。1967年からはニューメキシコ州のタオスに移り住み、2004年に亡くなるまでその地で制作を続けた。
*2 ヘンリー・D・ソロー(1817-1862年)
アメリカの作家・詩人・思想家。ウォールデン湖畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を約2年間過ごした。『ウォールデン 森の生活』は、その記録をまとめたものであり、その思想は後の時代の詩人や作家に大きな影響を与えた。
ロジャー・マクドナルド
東京都生まれ。幼少期からイギリスで教育を受ける。大学では国際政治学を専攻し、カンタベリー・ケント大学大学院にて神秘宗教学(禅やサイケデリック文化研究)を専攻、博士課程では近代美術史と神秘主義を学ぶ。帰国後、インディペンデント・キュレーターとして活動し、様々な展覧会を企画・開催。2000年から2013年まで国内外の美術大学にて非常勤講師も行う。2010年長野県佐久市に移住後、2014年に『フェンバーガーハウス』をオープン、館長を務める。NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]設立メンバー。AITのオンラインアート講座「Total Arts Studies」ディレクター。著書『DEEP LOOKING 想像力を蘇らせる深い観察のガイド』発売中。fenbergerhouse.com
禅がアーティストたちにもたらしたもの
ーーマーティンについて、もうひとつだけお聞きしてもよいですか? 彼女は人間社会から距離を置いて砂漠の真ん中でひとりで暮らして亡くなるまで活動していましたが、最終的には、彼女の生き方そのものが唯一無二の表現を生み出したと『DEEP LOOKING』にあったのですが、「ディープ・ルッキング」の思考、生き方を続けていると彼女のような生き方になっていくということでしょうか?
「ディープ・ルッキング」に100%コミットしたら、マーティンに近い生活になるのかなと想像しますよね。彼女も禅に影響されたっていうのは大きいですね。ニューヨークに彼女がいた時には鈴木大拙(*3)先生もいて、多くのアメリカのアーティストたちがショックを受けるんですよね。「え、こんな思想があるんだ」みたいな。アメリカのアーティストたちは禅を自由への鍵みたいなものとして捉えていたんでしょうね。だからこそ面白いカウンターカルチャーが生まれたんだと思っています。
日本の戦後の中で、そこまで禅にインスパイアされた作家ってあんまりないんですよね。むしろアメリカで「アメリカン禅」みたいな感じでアーティストたちに影響を与えているんですけど、それはなぜかというと、禅は日本では宗教として近すぎたと思うんですよね。おそらく、禅がアメリカに渡った時に、距離感があったからこそ、よい形で禅のエッセンスだけをピッキングできたのかなと思います。
私は「アメリカン禅」においては一休(*4)が代表的存在だと思っています。一休って相当やばいお坊さんじゃないですか。奥さんが何人もいて、いつも酔っ払っていて、日本中を歩き回っていた不思議なお坊さん。ああいうお坊さんって、日本の禅の中ではアウトサイダーですけど、アメリカのアーティストたちは多分一休にすごい可能性を感じたと思うんです。
一休が体現していたのはアナキズムな禅ですよね。禅はアナキズムと紙一重だと思うんです。アナキズムはよく誤解されているけれど、本当の解釈は「一人ひとりの中に自由と規律のバランスをちゃんと持つ」っていうものであって、単なるなんでもありではないんですよね。おそらく、禅に大きな影響を受けたマーティンは、一休のアナーキスティックな禅にすごい惹かれたと思っていて、そこからクリエイティビティの発見があったのかなと考えるとすごく面白いんです。
マーティンがニューメキシコの砂漠に最終的に住み着くっていうのは、空のスケール感とか、光の質とかと、彼女の禅の解釈やソローの影響が独特に混じり合った結果なんでしょうね。そこから彼女の素晴らしく原始的な作品が生まれたのかなと思います。
*3 鈴木大拙(1870-1966年)
仏教哲学者。禅をはじめとする仏教、広くは東洋・日本の文化や思想を海外に伝えたことで知られる。
*4 一休(1394-1481年)
室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧・一休宗純。「このはしわたるべからず」などのとんち話でも有名で、型破りな言動で自由奔放に生きた高僧。
自分が自然の一部であるという体感
ーーロジャーさんの個人的な体験として、ご自身の心臓の病気に対して西洋医学的なアプローチだけじゃなくて、「プラントベースホールフード」の食生活で病を克服したとお聞きしました。
息が上がるし、息が浅くなってる、おかしいなと感じて、病院で検査したら心臓の弁が塞がり始めていることがわかりました。ドクターには、よくあることで緊急ではないけれど、薬治療と手術で治すことができますよ、と言われたんですけど、自分でオルタナティブな治療を探し始めました。すると、食事療法だけで血管の詰まりを完全に治した人たちがいることを知ったんです。「プラントベースホールフード」という名前の通り、食事はプロセスされたものは一切やめて、主に植物、豆類とオーツとかを食べる食生活にシフトして、3年間実践しました。
3年経って検査を受けた時に、弁の詰まりが消えていたんです。ドクターも信じてくれなくて「なんか薬とか飲んでない?」と言われました。近代医療のマインドから見るとありえないでしょうね。「自然で作られたものだけでここまで身体の状況が変わるんだ!」という驚きの体験でした。
ーーその時、自分が自然の一部であるという感覚を得たそうですが、具体的にはどういう感覚だったんですか?
ほぼ100%土から出てきたものだけを食べて、身体をつくり直せたっていう感覚ですかね。特にひとつ決定的な瞬間っていうよりも、3年間毎日、朝昼晩やっているので、徐々に「あ、私は100%この土壌と空気と雨でできてるんだ」みたいな感覚を得るようになったんです。そのコネクションが実感としてあった。
仏教の僧侶、キリスト教の神父、彼らはみんな肉を食べないんですよ。これは偶然じゃないんだなとも感じました。何千年も前から、神に近づこうとする人たちは、なぜこういう食を主に食べてきたのかなっていうのを考えさせられて、体だけではなくて、意識のレベルもクリスタルのように感覚がシャープになったっていうのは、実感としてありました。
ーー今の話を聞いていると、それはもう「ディープ・イーティング」ですね。あらためて、全ての身体に関する感覚で「ディープ・ルッキング」の読み替えが可能なんだということがよくわかりました。
「ディープ・アダプテーション」とは
ーー『DEEP LOOKING』では「ディープ・ルッキング」の話だけでなく、これから先の未来に向かって、どう生きていくべきなのか、という内容で終わるのがすごく印象的でした。
先に話していたシャーマニズムのサイクルと同じ考えで、この章を入れたんです。自分だけが「ディープ・ルッキング」したままではなく、「ディープ・ルッキング」で得たもの、気づいたことを周りの人やコミュニティにシェアすることが重要なんです。
ーー「ディープ・ルッキング」の有用性ということですね。有用性の話で言うと、『DEEP LOOKING』の最後の章では、気候変動や社会のコミュニティの崩壊に対する環境学者であるジェム・ベンデル博士の論文「ディープ・アダプテーション」について触れられていました。「適応=アダプテーション」という言葉がキーワードで出てきてますね。ベンデル博士による「ディープ・アダプテーション」のための4つの要素がすごいなと思ったので、ここで引用させてもらうと
- 何を守りたいか。自分にとって何が最も大事なのかを考えること。
- 何を手放せるか。状況を悪化させないために何を断てるかを考えること。
- 何を復元するか。忘れた知恵やスキルをどうやって取り戻せるか。
- 深い関係をどう築くか。自分自身や家族、愛する人たちと、あるいは地球と。
という4つですね。『DEEP LOOKING』の最後の章でロジャーさんが伝えたいのは、これから近い将来に気候危機によって起こると言われている世界的な秩序崩壊の世界を生き抜くためのヒントとして、ロジャーさんが「ディープ・ルッキング」を通じて到達してきた思考を用いていこう、という提案であると捉えていいのでしょうか?
そうですね。2017年ぐらいだったと思うけど、ベンデル博士が「ディープ・アダプテーション」っていう論文を発表したのですが、あまりにも過激な内容でアカデミアのジャーナルはどこも掲載してくれなかったんですよね。
彼は楽観主義者ではない人で、近い将来、高い確率で文明は終わるでしょうと言ったんです。だから、その終わりをどう迎えるべきなのかっていうことを「ディープ・アダプテーション」の中で語っているんです。どうやったら人間らしく、平和な気持ちを持ったまま良い終わりを作っていけるのかという内容です。ある意味ではすごい過激なことで、あまり考えたくないことでもあるじゃないですか。今、地球のエコシステムが崩壊していて、おそらく何をやっても遅いでしょうっていうのが彼の見解なんですけど、本当にそうなってきてますよね。だから、この「ディープ・アダプテーション」の4つの要素は ひとつの道しるべとしてあってもいいのかなと思うんです。
この時代において「ディープ・ルッキング」から何を学べるんだろうと思った時に、ひとつは、「ディープ・ルッキング」という体験は無数の事実を自分の中に持てるスキルだと思っています。
これは今の時代、すごく大事になってきていると思います。悪さもある程度受け入れてその中に良いものを見出すような能力やキャパシティを作っていくことは「ディーブ・ルッキング」でできることだと思っています。耐える力や忍耐強さ、居心地の悪さに対するコミット度とか、そういうスキルはすごく大事な気がするんです。
ーーさっきのシャーマンの話もそうだと思うんですけど、それをコミュニティに戻すということですね。
ひとりで何かを体験するっていう時間もとても大切ですが、必ずそれを経てコミュニティに戻ってくるということですね。得た知恵をどう共有できるかとか、どうやって私たちの今置かれている状況をポジティブにできるのかとか、そういうクエスチョンが大事な気がしています。その裏には 個人主義という19世紀から資本主義を支えてきたシステムへの批判が私の中にはあります。
やっぱり人間って孤独ではなくて、実はソーシャル・アニマルだよね、ということが私のスターティングポイントなんです。今置かれてる様々な危機を乗り越えたり、適応するのであれば、個でだけではもう無理なんじゃないかな。個人主義の考え方の延長線上って、おそらく悲劇的な未来しかないと思うので、今からコミュニティの繋がりを強くしていく必要があるのではないでしょうか。
ロジャーさんの話を聞いて
ロジャー・マクドナルドさんのリサーチセンターであるフェンバーガーハウスを訪れて聞いた彼の話は、穏やかな口調で語られてはいるが、その内側に現代社会に対する批判がふんだんに織り込まれていた。今回の話の中心となった『DEEP LOOKING』の中でも、新自由主義への抵抗や気候危機を生んだ人間中心主義に対する批判と同時に、現状の世界に対して「意識的にサレンダー(降伏)する」という提案で締めくくられていることからも強く感じられる。
ロジャーさんは、アートをツールに我々が本来持ち合わせている「自分が自然の一部である」という感覚をもう一度アクティベートさせる方法のガイドとして、『DEEP LOOKING』を著したわけであるが、著作の中で繰り返し語られる「カウンターカルチャー」「禅」「変性意識」「自然」などのキーワードは、そのままハイキング、特にアメリカ発祥のULハイキングに関する文章としても合点がいくことばかりだと僕は感じた。
それはULハイキングが、ロジャーさんが『DEEP LOOKING』で語っていることと同じような思想や背景をそのルーツに持って生まれたからだろう。
アートに夢中だった僕自身が、はじめて八ヶ岳に登り、山頂に立った時に眼下に広がったそれまでは見えなかった山の向こう側の景色を前にして「世界ってこういうふうにできているだんだ」という啓示にも似た感覚に興奮した。それ以来、ハイキングもアートと同じように僕に新しい視点を与えてくれるものになったが、『DEEP LOOKING』を読み終えた時にも同じように感じた。
正直言って、今回のロジャーさんの話はこの記事だけ読んでもよくわからないところがあると思う。ぜひ、皆さんにも実際に『DEEP LOOKING』を手に取ってもらいたい。そうすれば、ロジャーさんが言うように「眠っていた力を呼び起こす。そうして私たちがあるべき姿を取り戻したとき、新たな地平が開けてくる」はずだ。
「ディープ・ルッキング」は、絵や彫刻を見るためだけの能力ではないとロジャーさんは付け足した。「木でも、雲でも、毎日の中で1分でも2分でもしっかりと観察するだけで、『見る力』はジムでトレーニングするように鍛えられる」と。
そんな力を身につけていつもの山を歩いてみると、今までとは全く違って見えることだろう。いや、山だけでなく、きっとあなたを取り巻く世界自体が違って見えてくるはずだ。
最後にロジャーさんがフェンバーガーハウスで企画した、高所登山時における神秘体験についての展覧会が、きっと皆さんの興味を引くと思う。リンクを記しておくので、ぜひ訪れてみて欲しい。
ロジャーさんが設立メンバーのひとりである『アーツイニシアティヴトウキョウ(AIT/ エイト)』が運営するプロジェクトTOTAL ARTS STUDIESでは、芸術をこれからの時代を生きぬくための「道具」として捉え、社会を多角的に考察しながら、誰もがアクセスできる学びの場を目指しています。このインタビューからロジャーさんや「ディープルッキング」に興味を持たれた方は、ぜひアクセスしてみてください。