山と道HLCディレクターの豊嶋秀樹をホストに、身体行為としてのハイキングをリベラルアーツ(固定概念や常識から解放され、自らの価値基準で自由に行動できるようになるための学問)として捉え、同じく身体行為である「見る」ことや「聞く」こと、「食べる」ことなどを手掛かりに、ハイキングのその先にある価値と可能性を探っていく連載『HIKING AS LIBERAL ARTS』。
#4となる今回は、ヨーガ実践者であり、現在は徳島県海陽町でリトリートビレッジ「KUO GREEN VILLAGE」を運営しつつ、フリースクールの開校を目指して活動を行うDONIさんに、ヨーガとは切っても切り離せない身体行為である「呼吸」について話を聞いていく。
「見る」「聞く」「食べる」以上に人間が生きるために必要不可欠な身体行為である「呼吸」の持つ本来の役割と力を、一緒に探ってみよう。
取材メモ:豊嶋秀樹
#1のロジャー・マクドナルドさんには「見る」、#2の西村佳哲さんからは「きく」、#3は三原寛子さんに「食べる」ことについて、それぞれ知見を広めてもらいました。#4となる今回は、ドニさんに「呼吸」について話を聞きます。
ULハイキングは、「より少ないものでやっていこう」という方法論だと思います。それは、例えば話題になって久しい断捨離やミニマリストのようなライフスタイルとも共通項があると思いますし、禅やヨーガのような大きな流れにも繋がっていく思想でもあると感じています。
「これだけあれば大丈夫」と、自分の経験と知識をすり合わせて取捨選択し、軽量化された道具でハイキングに行くことで、より自然に没入する方向にエネルギーを持っていくのがULハイキングの大きな目的です。シンプルであること。これはハイキングだけでなく、あらゆる事柄においても共通する真理だと思います。
それでは、意識的にも無意識的にも我々が絶えず行う「呼吸」について、ドニさんの案内のもと、意識を深めたいと思います。

DONI ヨーガ実践者/フリースクール代表/環境活動家。神奈川出身。インドと日本を行き来しながらヨーガを学び伝える。地球環境や子どもの教育がより自然で、あるがままでいられるための活動を展開。徳島県の山中でヨーガと環境についてを考えるリトリートヴィレッジ「KUO GREEN VILLAGE」を運営。子どもたちが自分らしく生きられることを目指すフリースクール「自然スクール キトモリ」を2026年に開校を目指して準備中。できる限り自然と共存できるライフスタイルを目指し、家族3人で半自給自足な暮らしを送る。
現在のライフスタイルとは対極にあった暮らしを経て
――今回は、DONI君の解釈する「呼吸」というものについて教えてもらいたいというのがメインの目的です。その話の前に、まずは自己紹介をお願いしたいんだけど、そう、まずは名前かな。DONI君ってどうして「DONI」なの?というところから聞かせてください。
「DONI」は高校入学の時からのただのニックネームなんですよ。男子校の高校生がノリでつけたニックネームで、「お前ドミニカ人みたいだな」って言われて、最初のあだ名は「ドミニカ」だったんです。それが言いにくくなって「ドニ(DONI)」になったという経緯で、それからずっと続いています。交流の輪が広がった中でもずっとDONIと呼ばれていました。大学に通っていた頃くらいからヨーガや瞑想に少し興味を持ち始めて、山と出会ったことがきっかけで人生が大きく変わりました。その中で「DONI」の方が自分らしくなれたと感じたこともあって、今でもありがたく使っています。
――さっき中高生時代の話が出ましたけど、出身はどちらなんですか?
出身は神奈川の横浜です。
――いつまで横浜に暮らしていたんですか?
大学卒業までですね。社会人になってからは大阪の広告代理店に入社しましたが、そこからずっと京都に生活の拠点を持っていました。マスコミに憧れていろいろと受けた末に受かったのが大阪の会社だったんです。でもその時すでに山歩きを知っていたので、都市部に住むことには抵抗があって、会社にも通える範囲で自然が豊かな京都の鴨川沿いに住んでいました。その会社を辞めるまでは鴨川沿いに住んでいましたね。
――大阪の広告代理店にいたんですね。今のライフスタイルから考えると、まるで真逆の世界のように思えますが。
本当に真逆でしたね。でも、本質は変わっていないのかなとも思っているんです。最初にやりたいと思った仕事は学校の先生だったんですよ。でもそこから考えも色々と変わり、広告業界に行きたいと思って社会人になった。でも、なんか違うなと感じて、ヨーガの先生をやらせてもらうようになって、今はフリースクールを立ち上げようとしています。広告、ヨーガ、フリースクールと業界としてはまったく違うんですけど、結局は「好きなことを伝えたい」という気持ちがあるんだろうなと思っています。自分がいいと思えるものを伝えること。それが広告ではなかっただけで、自分がいいと思ったものを知ってもらいたい気持ちは、今でもあるのかもしれません。


DONIさんが現在立ち上げを進めているフリースクールの予定地。集落の奥にあり、目の前には草の広場があり川が流れる自然豊かな環境。
山との出会いで変わった人生
――山との出会いが大きかったと言うことだけど、どんな感じで始まったんですか?
学生時代の最初の頃の僕は完全な夜型の暮らしで、夜にクラブに行ったり、お酒を飲んだり、本当に今とは真逆のライフスタイルを送っていました。でも、そこに自分らしさはまったく感じられなかったですし、「自分とは何だろう?」ということをよく考えていました。みんなに合わせてはいるけど、何か満たされない、という状態だったんです。
学生時代はマガジンハウスの雑誌『ターザン』でアルバイトをしていたのですが、そんな風に夜遊んで暮らしていることに違和感を感じていた時に、バイト仲間に「富士山に行こうよ」と誘われたんです。その時は山に登ったこともない完全な素人で、ジーンズにパーカー、スニーカーという格好。ヨドバシカメラで懐中電灯を買って、水もペットボトル1本だけ持っていくという状態でした。
夜のうちに出発して走って登れば、ご来光の時間に山頂に着けるだろう、というイメージだったんですが、実際は疲れ果ててしまい、6合目か7合目で日の出を見ることになって。しかも寒くて、本当に凍えそうでした。今なら怒られるような、典型的な無知な登山者でしたね。最終的には昼ごろになんとか頂上に着きましたが、死にそうな思いをしながら過酷な1日を過ごして帰ってきました。
そんな初めての登山体験だったんですが、1年くらい経つと、また山に行きたいという感情が芽生えてきたんです。辛い思い出しかなかったはずなのに、どんどん山に行きたくなってきて、その時一緒に登った3人のうちの1人に「最近また山に行きたくなってるんだよね」と言ったら、「実は俺もなんだ」と返されて、それで2人でまた山に行くようになったんです。
もう20年くらい前のことなので、まだ「山ガール」のような登山ブームもなく、若い人が山に行くというのは少なかったですね。南アルプスなんかは特に平日だと若い人どころか誰もいないくらいで、そういった場所でひたすら登って、自分を探求するという行為が、自分でいられる時間になっていたんです。
――山に行くことで、自分の求めているものに出会えたと。
それまで音楽をやってみたり、写真を撮ったり、好きなことをいろいろやって、なんとなく大学生活を送っていましたけど、どこか満たされない感覚がありました。でも、山を歩くことで「これでいいんだ」と感じられて、心が満たされるようになったんですよね。山がそう教えてくれたんです。
僕がアシュタンガヨーガのクラスで使っている「Mountain&Ocean」という屋号は、10年くらい山をやっていた頃に名付けたものです。山の後にサーフィンにも出会って、海もまたヨーガの学びのベースになりました。だから、山と海が教えてくれたことをもとにその名前にしているんです。特に山歩きは、自分を見つめる時間をくれました。

――DONI君が、今やっている活動について紹介してもらいたいと思います。まず、以前やっていた「DONIさんの家」のことから教えてもらえますか?
京都の山科に住んでいた頃のことですね。ヨーガを学びたくて、勤めていた広告代理店を辞めたのちに、まったくヨーガの経験がないのに、すぐにインドに行ったんです。その当時は家がなくて、人の家を転々としていました。インドと日本を行き来して、日本では誰も住んでいない、ボロボロだけどなんとか屋根があるような家に住ませてもらったり、「1ヶ月旅に出るからその間住んでていいよ」と言われた家に住んだり、そんな生活を7〜8年続けていたんです。
その中のひとつが京都の山科で、社会福祉施設のようなところに住ませてもらっていました。そこは精神疾患があるとされる人が自分の暮らしに戻るための場所で、皆が畑をやったりしながら暮らしていました。ちょうどその頃から食にも関心を持ち始めていたので、ヨーガを通じて身体と心を整えることと、食の大切さ、それによって世界が変わっていくということを伝える代わりに住まわせてもらっていたんです。その時の活動が今のこの集落での暮らしのベースになっています。
――僕はその頃のDONI君に、北海道の羊蹄山で初めて会ったんですよね。では、現在はどのような活動を?
今は、自分で「これが肩書きです」とはっきり言えるものがないんですが、簡単に言えば「ヨーガの先生」ですね。でも、ヨーガのポーズを教えるというよりは、僕らが住んでいるこの場所に来てもらって、ただ一緒に生活をしてもらう。そういう形で、ヨーガの教えを日常に取り入れる方法を伝えています。あとは、フリースクールの立ち上げ準備です。子どもたちがそれぞれの個性を大切にできるような場をつくろうとしています。これも、ヨーガの教えと本質的には同じことだと思っていて、それを通じてフリースクールをつくっている最中です。それ以外にも、食のことや環境のことを伝えたりしていますが、大きく言えば、そうした活動をしています。
――ここ(KUO GREEN VILLAGE)は興味を持った誰もが来られる場所なんですか?
はい。ここに来て、自由に過ごしてもらえたらと思います。




徳島県海陽町の集落のいちばん奥にあるKUO GREEN VILLAGE。DONIさん一家が暮らす母屋の他、宿泊できる2階建の離れもあり、目の前には川が流れ、自然農の畑が広がる。奥様のナミさんの作るマクロビオティックを基本とした料理も絶品。
呼吸という不思議な働きについて
――それではそろそろ呼吸の話を聞いていこう。呼吸って、誰もが絶えずしていることで、呼吸が止まったら心臓も止まって命に関わる。でも呼吸って、意識的にもできるし、意識しなくても無意識に続いている。不思議な働きだと思うんです。人間の他の機能では、例えば心臓を意図的に止めることはできないし、胃を自分の意思で動かすこともできない。でも呼吸だけは、肺という身体の内側の器官なのに、意識的に操作できるし、コントロールしなくても勝手に動いている。器官の使い方としても、呼吸は人間の中でかなり特別な存在だなと感じています。
呼吸法というと、ラジオ体操の最後に「深呼吸をして〜」とあるぐらいで、日常生活の中で改めて呼吸の仕方を教わる機会ってあまりないですよね。僕の時代では学校の体育の授業でも、そんなことは教わらなかった。でも最近では、呼吸が大事ですよねという話をいろんな場面で聞いたり、目にするようになってきました。特に、DONI君が取り組んでいるヨーガの世界では、呼吸は非常に重要なものとして扱われていますよね。セルフコントロールの手段としても、「一度深呼吸して落ち着こう」など、呼吸を通じて心を整えることが広く知られるようになってきて、呼吸が具体的に“使える”ものとして認識されるようになったと感じています。
そんな中で、まずDONI君にとって呼吸とはどういうものなのか。それはヨーガとつながっているだろうと想像していますが、もしそうであれば、そのあたりも含めて、DONI君にとっての呼吸の話から始められたら。
呼吸って、いろんな見方ができると思うんですよね。まず、生存機能としての呼吸。酸素を取って、二酸化炭素を吐くという、みんなが知っている呼吸。あとは、「呼吸の乱れは心の乱れにもつながる。だから深呼吸をしましょう、心が落ち着きますよ」みたいに、いろんな呼吸があると思うんですよね。1年か2年前に、息子から同じことを聞かれたことがあるんです。「父ちゃん、呼吸って何?」って。
――へえー。なんて答えたんですか?
僕がやるヨーガのクラスに連れて行ったり、家でみんなでヨーガの話をしたりしているので、息子にとって「呼吸」という言葉はよく耳にするものだったんですよね。でも、改めて僕自身、呼吸の大切さや恩恵について考えてみると、山のようにあるんですけど、いざ子供にそう聞かれた時に、「呼吸って、なんだろう?」ってすごく考えてしまって。多分、世の中の人は「酸素を吸って二酸化炭素を吐く。そうしないと生きていけない」という説明が一般的だと思うんですけど、それだけじゃないなと思って、「父ちゃんにちょっと考えさせてくれ」って言って、呼吸について考える時間があったんです。

KUOの隣の休耕中の畑で遊ぶ一人息子の然大くん。
その時に思ったのは、呼吸って、唯一とは言い切れないかもしれないけど、人間が自然とつながれる手法のひとつだということです。ヨーガにはいろんな段階があって、「自分という存在がどこにあるのか」ということを意識していくプロセスがあります。「自分」と言えば、普通はこの体を思い浮かべると思います。それがスタート地点。でも、「どこからどこまでが自分なのか?」という問いを掘り下げていくのが、ヨーガなんです。
呼吸も、多くの人が「自分がしているもの」だと思っていますよね。でも、たとえばこの顔の前の空気を吸った瞬間、その空気は体の一部になるわけで、「どこからが自分で、どこまでが外か」はとても曖昧です。呼吸は「自分がしている」と思っているけれど、よくよく考えるとそうじゃなくて、自分だけで成り立っているものではなく、世界とつながっているもの。自分の外にある自然と、自分の内にある自然、それらをいちばんつないでいるのが呼吸なのだと思います。でも、その「つながる」ということにおいては、現代では分断が進んでいる時代とも言われていますよね。けれども、どこにいても、誰とでも、僕たちは呼吸を通してつながっている。自然とも、宇宙とも。そんなふうに、今は感じています。
――その時の「つながる」というのは、「一体になる」というようなイメージですか? 中にある自然と外にある自然がひとつになるような?
そうですね。そもそもすべてが「一体である」というのがヨーガの教えなんですけど、同時に個々でもある。「個でありながら、全体でもある」という認識。それが、最終的に「自分とは何か?」という問いにつながってくる。多くの人は、「この皮膚の内側が自分だ」と思っています。そう思うことによって、さまざまな悩みや感情が生まれてくる。怒りや不満も、そういう捉え方から来ていることが多いと思うんです。でも、そうじゃなくて、「自分は体ではあるけれど、この体だけが自分ではない」と気づけると、自然へのリスペクトも自然と湧いてくるし、世界の見え方も変わってくる。自然がなければ、この体があるわけがない。それを頭では理解できても、それが自分にとって実感を伴って見えているかどうかが大切なんです。それはやっぱり、自分の体を通して、自分の内側をしっかりと見ていかないと辿り着けない世界だと思います。禅の世界も、まず自分を見つめることで、世界がだんだん見えてくると、僕は思っています。
無意識の呼吸と意識する呼吸
――たとえば目で「見る」という行為も、以前この連載に登場してもらったロジャー・マクドナルドさんの「ディープルッキング」の話では、ただ何となく視界に入れる「見る」と、じっと意識的に鑑賞する「見る」とでは、そこから得られる情報や、自分と世界とのつながりの感じ方がまったく違ってくるということでした。呼吸もそれと同じように、ただ何気なくしている呼吸と、意図的に行う呼吸とでは、取り込まれるものの質も、そこから受け取る感覚の深さも変わってくるのではないかと思うんです。観念的な話じゃなくて、機能としてね。呼吸によって世界を感じ取ったり、自然との関係性を頭で理解するのではなく、体を通して把握する。そういう感覚ってあると思うんです。
たとえば、目を閉じて耳を塞いでいても、呼吸を通じて世界の気配や空気の重さ、流れのようなものを感じ取れることがありますよね。視覚や聴覚が遮断されても、吐く・吸うという動作を通じて、僕たちは世界とつながっているし、感覚を働かせている。そんなふうに、呼吸もまた「知覚」のひとつなのだと感じています。
まさにその通りで、呼吸というのは世界を知覚する手段のひとつだと思います。特に、無意識に行っている呼吸と、意識的に行う呼吸では、その意味や働きに大きな違いがあります。ヨーガというのは、まさにその呼吸を深めていくための行為のひとつです。僕たちは、食べることや寝ることについてはすごく考えて意識するし、お金や時間もかけますよね。「体にいいものを食べよう」とか、寝具にお金をかけて「良い睡眠を取ろう」とか。でも「呼吸を良くしよう」と考える人は、案外少ないかもしれません。
でも実際には、呼吸こそが生きるために最も直接的に必要な行為なんですよね。食べなくても、寝なくても数日は生きられますが、呼吸を10分止めたら、人間は生命を維持できません。それくらい、呼吸はエネルギーを巡らせ、生命を維持するために欠かせない大切な営みなんです。

――無意識の呼吸と、意識的な呼吸では、大きな違いがありますよね。
ええ。無意識の呼吸は、ほとんどの場合、とても浅いものです。そしてその浅い呼吸のままでいると、身体に必要なエネルギーが十分に行き渡らない。つまり、身体や心が持っている本来の力を使い切れていない状態だと言えます。僕自身も、ヨーガを始める前と今とでは、呼吸によって体に届けられるエネルギーの質も範囲もまったく違うんです。
そんなふうに呼吸について話すと、スピリチュアルなものと捉えられることもありますが、実際にはすごく物理的で、自然の摂理に根ざした行為です。たとえば、太陽の光が植物を育て、植物を食べて人が生きるのと同じように、空気からも確実にエネルギーを得ています。だから、その空気をどれだけ体に取り込めているかが、僕たちのエネルギーに直結する。たとえば、ただ鼻から息を吸うのと、骨盤をしっかり立て、背骨から頭頂までをまっすぐに整えて吸うのとでは、体の中に入ってくる空気の感覚がまったく違います。整った姿勢で行う呼吸は、体の内側にしみ込むような感覚があり、その感覚がどんどん深く広がっていくんです。
そうやって体の奥深くまで呼吸が届くようになると、まるでエネルギーが全身の隅々に染み渡っていくような感覚になります。それが「呼吸の力」であり、「意識的な呼吸」がもたらす変化なんです。呼吸は、単なる生理的行為ではなく、自分の意識や感情、ひいては他者や自然とのつながりまでも変えていく、極めて根源的な行為なんだと、僕は思っています。
【後編に続く】