山と道JOURNAL編集長の三田正明が、マインドフルネス由来の「歩行瞑想」をリサーチすると共に実践し、その体験記をシェアしていく全3回の連載の#2です。
今回はいよいよティク・ナット・ハンの歩行瞑想メソッドの実践編に突入。あわせて、マインドフルネスのもうひとりの提唱者、ジョン・カバットジンのMBSR(Mindfulness-Based Stress Reduction:マインドフルネスストレス低減法)を紹介していきます。
この、ティク・ナット・ハンの歩行瞑想メソッド、非常にシンプルで簡単ですので、ぜひ皆さんも生活やハイキングに役立ててみてください。そこから、思いもよらぬ扉が開くかもしれませんよ。
ティク・ナット・ハンの歩行瞑想
“歩く瞑想では、ただ歩くことを楽しむために歩きます。どこかに辿り着くために歩かないのがコツです。(中略)特定の目標や目的地を求めずに、ただ歩くことを楽しみます。歩く瞑想は、目的を達する手段ではありません。ただ歩くために歩くのです。”(『ブッダの幸せの瞑想』島田啓介、馬龍久美子訳 サンガ刊 より。以下同。以下引用部分原文ママ)
さて、ここからはいよいよティク・ナット・ハンの『ブッダの幸せの瞑想』島田啓介、馬龍久美子訳 サンガ刊 より。以下同)から、歩く瞑想のメソッドを紹介していきたい。でも安心してほしい。このメソッドは、誰にでもできそうなほどシンプルだ。
”歩く瞑想では、一息ごとに何歩進んでいるかに気をつけて練習します。息を吸って吐きながら、その一呼吸ごとに気づきを向け、その間に何歩歩いたかをたしかめましょう。この瞑想法では、呼吸に歩みを合わせます。その逆ではありません。一息を吸うときに、二歩かかるのか三歩かかるのかは、あなたの肺活量によって違ってきます。一息を吸うあいだにあなたの肺が必要なら二歩、三歩のほうがしっくりするなら三歩にします、息を吐いているあいだも注意を持続しましょう。息を吐きながら、自分の肺が何歩歩きたがっているのかを知りましょう。”
つまりこれを要約すると、「呼吸にペースをあわせ、一歩一歩に注意を向け、一呼吸ごとに気づきを向けながら歩く」ということになる。また、歩くペースは普段よりゆっくり、3分かかる場所なら8〜10分ほどかけて歩くのが良いという。
“呼吸をコントロールしようとしてはいけません。じゅうぶんに時間をかけて必要な空気を取り込みながら、肺がいっぱいになるまで何歩進むか、空になるまで何歩かかるのか、呼吸と歩みの両方に気を配りながら自分でたしかめます。このとき、呼吸と歩行をつなぐのが、数えるという行為です。(中略)笑顔の実践も忘れないように。わずかな微笑みは呼吸と歩みに落ち着きと喜びを生み、注意力を保つ助けになります。三十分から一時間ほどつづければ、呼吸、歩み、数えること、ほほえみは無理なくひとつにまとまってきます。”
前編でも紹介した、僕が以前実践していた「禅ランニング」のメソッドも似たようなものだった。「禅ランニング」は走るぶんペースが速いので、どちらかの足が着地するたびに10まで数える。頭には「脇腹が痛い」とか、「ちょっと歩きたい」とか、明日の予定や最近の出来事など様々な考えが浮かんでくるが、「今こういうことを考えた」と意識して思考を中断し、またカウントに集中する、というものだった。
ただ、違いがあるとしたら、ティク・ナット・ハンの歩行瞑想は、まず呼吸にフォーカスしている点だろう。何せ「マインドフルネス=呼吸を意識すること」であることは、前編でも繰り返し紹介してきた通りだ。
そして微笑みが重視されることも興味深い。やっぱり笑顔は自分もまわりもハッピーにしてくれる。ティク・ナット・ハンやダライ・ラマのような徳の高いお坊さんが持つ、あの菩薩のようなアルカイック・スマイルは、こうした日々の実践の元で身につけているものなのかもしれない。
ようやく猛暑が収まり、外を歩けるようになってきた。さっそく僕は近所のいつもの散歩コースの緑地に行き、歩く瞑想を実践してみることにした。

僕のお気に入りの散歩コースのひとつの鎌倉にある山崎・台峰緑地。
最初の歩行瞑想の実践
とりあえず歩き出す。おっと、ペースが速いかもしれない。少し抑えめにして、まずは呼吸に意識を向ける。鼻呼吸でいいだろう。1、2、3、4。呼吸ごとに歩数を数える。ティク・ナット・ハンは「一息ごとに2歩か3歩」と言っていたが、僕は一息ごとに4歩が合っているようだった。やっぱりちょっとペースが速すぎるのかもしれない。でもまあ、まずは自分のペースでやってみよう。
視線は少し落として2〜3m前に固定し、まず呼吸に集中してそのペースに合わせて歩く。1、2、3、4、1、2、3、4、一歩ごとにカウントする。とりかかっている仕事のことや夕飯の献立など、様々なことが頭に浮かぶが、そのたびに1、2、3、4、1、2、3、4、カウントに戻る。
だんだんと呼吸と歩きのリズムが4/4拍子に聞こえてきて、自分の体でビートを刻んでいる気分になってきた。ちょっと高揚してきたのか、歩行のペースが速くなる。でもまあ、今は今の呼吸に合わせ、自分のペースで歩こう。ふと、鳥の声や虫の音が耳に飛び込んでくる。聴覚が敏感になっているのか、サウナで水風呂に入った時に思わず水の音を聴いている時のような、あんな感じに近い。肌にあたる風が心地よい。
そのまま緑地の尾根道を端から端までゆっくり往復して約30分。最後は心と体がぴったりひとつになり、呼吸と歩くことに集中することができた。頭の中は少しボーッとしているような、少し高揚しているような気分で、普通にハイキングをしていてもこういう境地になることはあるが、それを人為的に作ることができた気がした。これは良いことを覚えたぞ。
さらなる歩行瞑想の実践
それから、#1でも紹介した隙間時間の瞑想の他、毎日のように歩行瞑想を実践することにした。マインドフルな呼吸と同じく、ティク・ナット・ハンの歩く瞑想ではチャンティングも重視される。
“歩く瞑想は、歩数を数えるほかに、言葉を使う方法もあります。たとえば、呼吸のリズムが3-3の場合は、心の中でこう唱えます。「蓮の 花が 咲く、蓮の 花が 咲く」、または「緑 色の 地球、緑 色の 地球」というように。(中略)ただ言葉を唱えればよいというものではありません。ここでは、足元に蓮の花が咲いているのを本当に観るのです。私たちの緑の地球と本当にひとつになるのです。想像力と智慧を働かせて、あなただけの新しい言葉を自由に作ってみてください。”
つまり、呼吸の時と同じく、唱えたい言葉を唱えればよいというわけか。僕の呼吸と歩行のリズムは1呼吸ごとに4歩なので、「吸って、吐いて」のように2つの言葉を繰り返すのがよさそうだ。
「蓮の花が咲く、蓮の花が咲く」「緑色の地球、緑色の地球」という言葉も、要するに何かしら良いイメージを詠唱することで、そのイメージを自己催眠のように、自分の中に定着させていくためのものではなかろうか。マインドフルネスの元となる仏教には、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱える浄土宗や、「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮宗のように、繰り返し念仏を唱えることを修行とする宗派だってあるのだから。
ならば、ここ数年来、僕の人生のテーマは「受け入れ、手放す」ことである。なぜこの境地に行き着いたかを説明すると長くなるのでここでは省くが、要はとにかく僕は選り好みばかりしているし、様々なことに執着ばかりしているからだ。ひとまず周囲をありのままに受け入れ、執着を手放さないと、僕はこの先もずっとこの自分のままだし、それはちょっと困る。
そこで僕は歩きながら、こう唱えることにした。
吸っている 吐いている
受け入れる 手放す
吸っている 吐いている
受け入れる 手放す
自分的にはこれでしっくりときた。吸うことは酸素を受け入れることだし、吐くことは二酸化炭素を手放すことだから、意味的にも両者は似ている。DONI君(#1参照)も、呼吸とは「受け取り、あたえる」ことだと言っていた。これを唱え続け、少しは心に定着させられれば、今よりも少しはマシな人間になれている気がする。
さっそくいつもの緑地に行き、歩行瞑想を始めてみる。だが「吸っている 吐いている 受け入れる 手放す」と頭の中で唱えてみても、それと呼吸と歩行がひとつにならず、なかなか集中できない。「この瞑想法では、呼吸に歩みを合わせます。その逆ではありません」というティク・ナット・ハンの言葉を思い出し、まずは呼吸に意識を集中し、それにあわせてゆっくりと歩き出し、呼吸と歩きのリズムが合ってきたらこれまでのように「1、2、3、4」とカウントした。やはり歩数のカウントは、シンプルなだけに集中しやすい。
しばらくそれを続け、呼吸と歩行とカウントが一連の流れとしてスムーズにできるようになってきてから、まずは「吸っている 吐いている」と繰り返した。するとだんだんと呼吸が深くなり、なんだか波の音を聴いているような気分になってきた。
次は「受け入れる 手放す」のみを繰り返す。何度も何度も。そして「吸っている 吐いている 受け入れる 手放す」と続けてみた。でも、やっぱり「何と唱えるか」に意識が取られてしまい、そこから雑念も次々と沸き立ち、なかなか集中が難しい。また「1、2、3、4」に戻ると、集中に戻れた。
こんなふうに実践を続けていると、うまく集中できる日も、できない日もあった。次第に、歩行瞑想は「ウォーキング・ハイ」のような状態を作るものではなく、もっと「凪」というか、「ピース」な状態にしてくれるものである気がしてきた。ハイでもローでも、ハッピーでもサッドでもなく、ただ満たされているような感覚。
そういえば、ティク・ナット・ハンの有名な言葉に”Peace is every step”というものがあった。それって、つまりこういうことなんだろうか?

Illustration: KOH BODY
様々な場所での歩行瞑想の実践
また、ティク・ナット・ハンは、歩行瞑想はいつでも実践できるとも語っていた。たとえば車を降りて職場に向かうときや、台所から居間までを移動する間でも可能だと。なので、緑地での散歩以外でも、気づいた時に歩行瞑想を実践してみることにした。
たとえば、繁華街での移動やターミナル駅での乗り換えなど、雑踏の中を歩かないといけない時も、歩行瞑想で歩いてみると目の前の環境や行き交う人々に惑わされず、あまりストレスを感じずに移動することができた。
また、最初はそうは言っても緑地のような気持ちの良い場所でやる方が効果的なのではないかと思っていたが、家や職場の周囲の住宅街の道でも十分できることがわかってきた(交通量が少ない場所や土や緑が多い場所の方がベターではある)。
旅先や出張先でもホテルのまわりを探索したり、駅や目的地まで移動する時に歩行瞑想をした。たとえば旅行先でランニングするのが好きな人は多いと思うけど、あんな感じに近い。これまでの日常に「歩行瞑想」というレイヤーを重ねることで、可能性が様々に広がる気がした。
瞑想のとき以上に、僕は新しいツールを手に入れたと思った。最初はハイキングに使えそうだなと思って始めた歩行瞑想だが、これはハイキングだけでなく、もっと様々なことに応用が可能だ。しかも、いつでもどこでもできて、お金もかからず、道具もいらず、心身の健康に役立つのだ。最高ではないか!
“私たちは毎日どこかを歩いています。日々の生活に歩く瞑想を加えたとしても、それほど余計な時間がかかるわけではなく、特別な場所に行ってやらなければならないことでもありません。いつもの階段で、道路から自宅の玄関まで、一本の木から他の木までなど、ひとつの場所を選んで毎日実践してみてください。どんな道でも、歩く瞑想の道にすることができます。”
さて、ここまではティク・ナット・ハンの歩行瞑想を見てきた。だが、#1で紹介したように、マインドフルネスにはジョン・カバットジンというもうひとりの立役者がいるのだ。ここからはジョン・カバットジンのマインドフルネスを見ていこう。
ジョン・カバットジンって誰だ?
ティク・ナット・ハンの歩行瞑想の実践もだいぶ進んできたので、次にジョン・カバットジンの代表的な著作である『マインドフルネスストレス低減法』(春本豊 訳、北大路書房 刊)にも学んでみることにした。
原書が1990年に出版されたこの本は、日本語で読めるマインドフルネス関連書籍の中でもかなり古いもののひとつで、その意味でもまずマインドフルネスの本流を知れるのではないかというのもこの本を手に取った理由だ。

J・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』春木豊訳、北大路書房刊
あらためてジョン・カバットジンは、1944年生まれのアメリカの医学者で、マサチューセッツ工科大学(MIT)で分子生物学を研究する側、禅やヨーガを実践し、ヴィパッサナー瞑想での経験をきっかけに、1979年にマサチューセッツ大学医学部にマインドフルネスセンターを開設した。
MITに西洋科学を、仏教指導者に教理と修行法を学んだ彼はそれを統合し、慢性痛やストレス関連疾患の患者のためのプログラムとしてMBSR(Mindfulness-Based Stress Reduction:マインドフルネスストレス低減法)を開発。ティク・ナット・ハンらが伝えてきた教えと西洋科学を結びつけることで医療現場への応用を可能にした。

Illustration: KOH BODY
つまり、僧侶として人々にマインドフルネスを語るティク・ナット・ハンと、医学者としてマインドフルネスをストレス低減プログラムとして患者に処方するジョン・カバットジンでは、バックグラウンドもアプローチもまったく違うという点が大変興味深い(ただ、ジョン・カバットジンは繰り返しティク・ナット・ハンからの影響と感謝を語り、一方のティク・ナット・ハンはジョン・カバットジンの著作に賛辞や序文を寄せており、両者は対立関係にあるわけではない)。
では、ここからはジョン・カバットジンのMBSRのメソッドをまとめた『マインドフルネスストレス低減法』を、呼吸や歩行瞑想についての記述を引用しつつ紹介していきたい。
「やっかいごとだらけの人生」を生きるために
“やっかいごとのない人などはいないはずです。人間は一人ひとり、それぞれの「やっかいごとだらけの人生」をかかえて生きているのです。(中略)この本では、この「やっかいごとだらけの人生」をまるごと抱きしめてしまうという方法をお話ししていきます。まるごと抱きしめてしまうことができれば、次々に訪れる人生の嵐になぎ倒されることなく、力づよく生きていくことができるのです。そのためには、まず自分自身と世界を新しい視点でとらえる方法を学ばなけばなりません。”(J・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』春木豊訳、北大路書房刊より。以下同。以下引用部分原文ママ)
『マインドフルネスストレス低減法』は、原題を“Full Catastorophe Living”といい、直訳すると「やっかいごとだらけの人生を生きること」となる。そして、やっかいごとだらけの人生をなんとか生き抜いていくために「今という瞬間に集中する」ことの重要性と、その方法を繰り返し語っている。
“「マインドフルネス瞑想法」は、“注意集中力”を高めるためのトレーニングを体系的に組みたてたものです。これは、アジアの仏教にルーツをもつ瞑想の一つの形式を基本としています。注意を集中するということは、”一つひとつの瞬間に意識を向ける”という単純な方法です。この力は、今まではまったく意識していなかったことに、意識的に注意をはらうことによって高まってきます。つまり、「マインドフルネス瞑想法」は、リラクセーション(緊張がゆるみ、安らいでいる状態)や注意力、意識、洞察力をもたらす潜在的な能力を活かして、自分の人生を上手に管理する新しい力を開発するための体系的な方法なのです。”
そして、ティク・ナット・ハンと同じく、ジョン・カバットジンも「呼吸」こそが、「一つひとつの瞬間に意識を向ける」ための重要なツールであるという。
“「呼吸は、毎日の生活に対する意識を高める役目をはたしてくれます。呼吸は、私たちが生きている限り、私たちと共に存在します。今日は家に置いてくるというわけにはいきませんから、あなたが何をしようとも、どこにいようと、常にあなたと共にあるのです。呼吸を意識すれば、“今”と“ここ”に注意を集中することができるのです。呼吸に意識を向けるだけで、自分の体や生のリズムに対して注意を保つことができるのです。”
マインドフルネス瞑想法の7箇条
このように、「呼吸を意識すれば、“今”と“ここ”に注意を集中することができる」という点では、ティク・ナット・ハンもジョン・カバットジンも同じなのであるが、詩的で簡潔な語り口のティク・ナット・ハンに対し、医学者であるジョン・カバットジンはとにかく饒舌だ。何せ、「マインドフルネス瞑想法の実践」の章に入ってから、実際にメソッドの説明に入るまでに50ページもあるのだ! だが、そこで語られる「マインドフルネス瞑想法の基本的な態度」7箇条は興味深かったので紹介しておきたい。
カバットジンによれば、MBSRトレーニングの長期的な効果が期待できるかどうかはそれに取り組む態度で決まってくるという。それが次の7つだ。
①自分で評価をくださないこと
私たちはすべてのものに心の中でレッテルを貼り、分類づけをしている。こうした評価が心の中を支配していると、安らぎを見つけるのは難しい。まず必要なのは、「自分が評価していることに気づくこと」。トレーニングにあたっても、自分でその良し悪しを判断せす、客観的な観察者の立場でその状況を見るように意識的に務めること。
②忍耐づよいこと
トレーニングを続けても効果が現れなくとも、やきもきしないこと。ものごとにはそれなりの時間の経過が必要だということを理解し、すべてを受け入れること。
③初心を忘れないこと
トレーニングを行う時は、いつも初めて行う気持ちで取り組むこと。以前の体験にもとづいた余計な期待があると瞑想に没頭できず、新しい可能性を受け入れられなくなる。自分勝手な思い込みのベールを取り払い、世界を曇りのない心の目で見る姿勢を養うこと。
④自分を信じること
あなたは誰かのようにはなれない。人は“より自分らしくなる”ことしかできない。そして瞑想とは、より自分に近づくために行うこと。先生や本は、道標の役割しか果たせない。誰かから学ぶ姿勢は大事だが、あなたの人生の瞬間瞬間を生きるのは、あなた自身である。トレーニングを通して自分自身であることに責任を持ち、自分の中の声に耳を傾け、自分という存在を信じることを学ばなければならない。
⑤むやみに努力をしないこと
瞑想の場合、ゴールに辿り着くための一番良い方法は、結果を急いでむやみに努力しようとしたりしないで、瞬間瞬間の事柄に注意を集中し、受け入れることである。忍耐強く規則正しく取り組んでいれば、ゴールはおのずと近づいてくる。そしてその力は、あなたの中から生まれてくる。
⑥受け入れること
受け入れるということは、ものごとを今あるがままに見るということ。今の自分自身を受け入れること。あるがままに見る態度を身につければ、実際に何が起こっているかを明確に掴むことができ、自己流の判断や欲求、不安感、偏見などにゆがめられた現実にもとづいて判断するよりも、正しい判断ができるようになる。
⑦とらわれないこと
自分の心が何かにとらわれたり、何かを追いやろうとしていることに気がついたら、そういった衝動を意識的に解き放つこと。その時、自分の体験を評価していることに気がついたら、その評価自体にはこだわらず、手放すようにすること。評価したことは認めても、それ以上の深追いはやめること。同じように過去や未来についての思いがわいてきても、とらわれず、成り行きを観察するようにすること。
カバットジンの長い説明(なんとこの7箇条の説明だけで13ページを費やしている!)を、ここで紹介するために筆者が思いっきり要約してみたのが上記で、こうしてエッセンスを抽出してみると、すべて同じことを違う角度から言っているだけな気もするが、素晴らしい金言ばかりではないだろうか(筆者の要約ですが)。
そして個人的には、僕の人生のテーマとして瞑想の時に唱えるチャントとした「受け入れる」「手放す」というワードが何度も出てきたのには驚いた。自分、すでに以前からマインドフルネスの方向に向いていたのかもしれない。
とにかく、むやみに努力せず、一喜一憂せず、結果を求めず、世界と自分をありのままに受け入れる姿勢で、これからも歩行瞑想の実践を続けようと思う。というわけで、次回はカバットジンの歩行瞑想の実践をレポートすると共に、この連載のまとめとしたい。















