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鎌倉新工場への道

#2 稼働を始めた豊岡ファクトリーの現在地

スタッフと宿南社長がそれぞれの目線で語る1年間の奮闘記
取材/構成/文:三田正明
構成/文:李生美
2025.10.21
鎌倉新工場への道

#2 稼働を始めた豊岡ファクトリーの現在地

スタッフと宿南社長がそれぞれの目線で語る1年間の奮闘記
取材/構成/文:三田正明
構成/文:李生美
2025.10.21

山と道は、現在ローカルである鎌倉に、本社機能と一体化した自社工場の建設計画を進めています。これまでも限定的な作業を行う小さな工場は持っていましたが、本格的な量産工場は初めての挑戦です。

開発や販売、情報発信を担う本社機能の中に生産の現場を置くことで、山と道の内側にもの作りがある環境を形作りたい。そして縫製という形でもの作りに携わる生き方があることを示し、若い世代にもそこに参加していってもらいたい。

その取り組みの第一歩として、長年提携している兵庫県豊岡市のカバン製造会社「タカアキ」さんに技術を学ぶべく、豊岡に研修のための工場を作り、そこにスタッフ2名を送り込むと共に新たなスタッフを募集しました。

と、ここまでが前回のお話でしたが、それから1年が過ぎ、完成した豊岡ファクトリーには新スタッフが加入し、稼働を始めています。

それまでは出会うはずもなかった人たちが出会い、まったく違う環境に飛び込み、共に何かを作り上げていく過程に、一体何があったのか? 連載#2となる今回は、山と道JOURNALの三田が聞き手となり、豊岡に乗り込んだスタッフの中川と北島、それを快く迎え入れていただいたタカアキの宿南社長、そして新スタッフから澁谷と廣澤に、それぞれの視点からこの激動の1年と、そこにあった熱い人間ドラマを語ってもらいました。

① 豊岡ファクトリーが越えたいくつもの壁

スタッフ中川・北島インタビュー

#1に続き、まずは彼らに語ってもらわなければ始まりません。豊岡ファクトリーの計画を立ち上げて豊岡に移住し、プロジェクトを旗振り役として引っ張るベテランスタッフの中川と北島と共に、ここ1年で直面してきた数々の壁を振り返りました。

(左)北島市郎:修理部主任の側プロダクトチームの一員としてサンプルを縫ったり、主に作る仕事に従事しているが、現在は新工場の仕組みづくりにも尽力。
右)中川爵宏:生産担当として生地部材の調達から工場の手配や納期の管理を行いつつ、現在は新工場プロジェクトの陣頭指揮も担う。

様々な業種から集まった5人のスタッフ

——1年ぶりのインタビューになるけど、前回は工場の求人募集を始めるタイミングだったよね。今は豊岡で工場を始めてどれくらい経ったんだっけ?

中川 2024年の7月からなので、ちょうど1年2ヶ月くらいです。

北島 はじめの半年はふたりだけで、工場の整備とタカアキさんでの研修が中心でした。なので今年の2月に新しいスタッフが合流してから一気に工場らしくなりましたね。

——最初は廃墟のようだった工場が…。

元は古い機械部品工場だった豊岡ファクトリー外観。リノベーションはスタッフもDIYしつつ進められた。

中川 今では生活感あふれる我が家になっちゃいましたね。新しくスタッフが入って仲間が増えたことで、より精神的にも「家」になりました。今はヒッチハイクで旅している16歳と17歳が滞在してるんですけど、昨日もここで晩ご飯をみんなで作って食べたりして。彼らがギターを弾いて歌っているなかで、僕は一緒に歌いながら仕事してるみたいな。

現在の豊岡ファクトリー内観。取材時は、中川の知人の家族の十代の少年少女がヒッチハイクの旅の道中で滞在中だった。

——スタッフの選考も大変だったと思うけど、振り返るとどう?

中川 前回の記事で、僕らの気持ちを伝えさせていただいて、「行くぞ!」と旗を上げた感じだったじゃないですか。それに対して「俺も行きてーぞ!」と、熱量の高い人がたくさん応募してくれました。これまでの採用だと書類選考の時点でお断りすることもあったんですが、今回は応募してくれた30人くらいの方々、全員とオンラインで面談しました。

やっぱり実際に話してみると、その人の中から出てくるものに可能性を感じることもあったしお断りした人たちも熱い気持ちを語ってくれて、そういう人たちにとっても良い影響を与えられるような活動を僕らが豊岡でできたら良いなと、頑張れる源になっていますね。

——応募者のみなさんは、どういう人たちが多かったの?

北島 みんなある程度の人生経験を積んだ上で、より新しいチャレンジをしてみたいと思っていた時期に、新しい工場を立ち上げる話が琴線に触れたという人が多かった印象です。

中川 そうですね。応募者にはハイキング自体やっていない人も結構いましたけど、みんな山と道のことは知っていたし、7割ぐらいはユーザーでしたね。工場とか量産の経験者も5〜6人くらいで、半分は農家の方や市役所の職員の方とか、全くの異業種からの応募でした。

——応募者のみなさんと接していて、インスパイアされる部分もあった?

中川 経験者の方たちは、もの作り業界に限界を感じていたり、もっとこうした方が良いという想いを持っていて。だから僕らの「日本のもの作りを再構築したい」という想いに共感してくれて、一緒にやりたいと言ってくれる方が多かったです。未経験の方たちは、山と道のことが好きで、もの作りをやってみたくて、僕らの想いにも共感してくれた方が多くて、熱意とやる気が強かったです。例えば宮崎で農家をやってる方もそんな熱い想いを語ってくれて、そういうところにも山と道が届いてることは嬉しかったですね。

北島 山と道の裾野の広さにもびっくりしたし、全くの異業種の方が応募してくれたことにも、すごく刺激を受けました。

——最終的に何人がスタッフとして合流したんだっけ?

中川 5人です。新しく入ったスタッフのみんなも前職はテントメーカー、システム開発、ランドセル工場、クロージング縫製、ヨガ講師といった面々で、バラエティ豊かですよね。

北島 本当はもう少し段階を踏んで人数を増やす予定だったんですけど、気づいたら揃っちゃってましたね。

中川 良い人がいたからね。12月に豊岡で1泊2日の実技試験も含めた最終面談をしたんですけど、そこから2月にふたり、3月に3人が合流しました。ひとりだけ20代がいるんですけど、平均年齢は40歳オーバーの新しい工場が誕生しました。

選考された5人に、タカアキさんから転職のスタッフも含めて記念撮影。

最初の忘れられない壁

——年齢もバックグラウンドも性別も様々な人たちが集まって、みんなが初めましての環境も珍しいよね。まずはタカアキさんの工場での研修からスタートしたの?

中川 そうですね。コンピュータミシン、上下送りミシン、裁断と何種類かの研修をひと通りやってもらって、本人の希望と適性を寄せていきながら、それぞれコンピュータミシンの班長、縫製の班長、裁断の班長、現場監督みたいにアサインしていきました。それから初めての量産が4月から始まったんですけど、それは最初の忘れられない壁になりましたね。

——3月に集合して4月から量産って、早いね。

中川 本当は夏の終わりぐらいからちょっとずつ始める予定だったんですけど、色々あって、5ヶ月ぐらい早まっちゃったんですよ。

——量産は何からやったの?

中川 バックパックのONEのヒップベルトですね。しかも今回から仕様が変わって、より難易度が高くなっていて。新スタッフで最年長の澁谷さんにチーム作りの経験があったので、でっかい模造紙にみんなの意見を付箋で書いて貼ったり、TO DOを洗い出してスケジュールを組んでくれたり、どんどん主導的に進めてくれました。

北島 ヒップベルトの量産を始める時に、「プロジェクト名に山の名前をつけよう」となって。来日岳(くるひだけ)っていう山がすぐそこにあるんですけど、「プロジェクト来日」っていう名前をつけました。なので今は「この山は初めての山にしては結構険しいぞ〜」とか、ひとつずつ山に例えてクリアしていこうとしているところですね。

新スタッフ最年長57歳で経験豊富な澁谷が、「プロジェクト来日」を積極的に主導。

TO DOリストやスケジュールなどを記した「プロジェクト来日」進行表。

——実際に中川・北島含めて、本格的に工場で働いたことがある人がいない、いわば素人集団だよね。それはもうたくさんの壁がありそうだけど。

中川 シワができやすいコンピュータミシンでシワが寄らないためにどうするとか、あと硬いパッドと柔らかいパッドをシールで貼り合わせてから縫うんですけど、ミシンの針にシールの粘着がついてしまったことが他の工程で悪さをするとか、思ってもいなかったことが全部起こりました。

北島 新しいことを試すたびに何か問題が起きる状態で。(タカアキの)宿南社長には、「失敗しないと覚えられないから、どんどん失敗しろ」と言われながらやっていきました。

中川 北島が設計の枠を作っていたんですけど、実際に縫ってみると絶対に問題が起きるから、特に大変だったと思います。工程はタカアキさんの意見も伺いながら、僕らの方でもまた違うことを試してみたり。そうすると、宿南社長から「お前らは言うこと聞かねえ」って言われたりね(笑)。

北島 「TTP*」とか言っておきながら(笑)。もちろん聞いてるんですけどね。

*TTP = 徹底的にパクる。宿南社長の「もの作りはまず徹底的にパクるところから始まる」という座右の銘から。『鎌倉新工場への道#1』参照。

量産時の豊岡ファクトリーの様子。

中川 やっぱり宿南社長はゼロから始めて100人ぐらいの会社にして、工場も4つ持っているので、仕事を効率化することでスタッフに賃金をしっかり払えるし、みんなが幸せになるという考え方があります。僕らはそれにプラスして、やっぱりクオリティを高くしたいし、みんなの縫製技術が高まるところも目指していきたいんですよね。それが社長からすると、遠回りに見える部分があったんだと思います。

——宿南社長からしたら、量産するならもっと効率の良いやり方があると。

中川 それもありますし、一点ものを作ってるんじゃなくて、製品なんだからちょっとシワが寄っても使えるじゃないかとか。妥協のないクオリティを量産で出そうとすると、コストがかかってみんなに払える給料が減るじゃないかとか。

——量産工場を経営してる立場からすると、ごもっともな指摘だよね。

中川 もちろん、日々トラブルが起きるたびに相談をしたり教えてもらったりしていたので、本当にタカアキさんがいなかったら無理でした。かといって、全部タカアキさんの言う通りにするんじゃなくて、僕らなりにも試行錯誤していった形です。

——製品としては、どういうふうにアップデートされたの?

中川 頑丈さは変わらないんですけど、平面に置いた時にシワが入らないようになりました。

北島 あとはパイピングとか、見えない部分の縫い目の強度を高めていきたいという要望もあったので、縫い代を出すためにコンピュータミシンで調整するのが本当に大変でした。その分、強度も見た目の美しさも兼ね備えた仕上がりになっています。

新しくなったHip Belt for ONE

中川 北島は2回くらいノイローゼになりかけたけど(笑)。僕は出張で豊岡に2週間いない時なんかもあったので、北島がひとりで抱えなきゃいけないことも多かったと思います。

北島 ONEのヒップベルトの量産の時は、お昼ご飯をどうするのか(山と道の各拠点ではお昼ご飯をスタッフが作っている)、ゴミ処理の方法をどうするのか、小さいことでいうとセロハンテープをどこに置くのかとか、そういうレベルで決まっていない状態だったので、工場の生活も含めてイチから作りながらやっていたので大変でした。

豊岡ファクトリーではスタッフが持ち回りで昼食を作っている。写真は中川手製のスパイスカレー。

中川 これまでも量産工場で働いていたスタッフがふたりいるんですけど、工場って、普通は入ったらやり方を全部教えてくれる環境じゃないですか。豊岡工場ではそれが一切なかったので、今だから本当に良い経験になったと言えるけど、当時は苦しかったです。こんな僕らみたいにゼロベースで、経験もない素人が作る工場が、今だかつてあったのか分からないです(笑)。

——去年のインタビューでは、そんなこと全く心配してなかったじゃないか(笑)。

中川 「やるぞー!」って気合いだけありましたね。完全に自分たちで蒔いた種ですよね(笑)。

北島 でも結果、中川が「俺たちには俺たちのやり方があるんだよ」っていう気持ちを強く持ち続けていたから、ここまで来れたなという実感はすごくありますね。量産の途中で妥協していたらやっぱり違うものになっちゃうし。あとはやっぱり、タカアキさんが全面的に協力してくれて、やりたいようにやらせてもらったのも大きいですね。

中川 宿南社長もちょくちょく工場に来てくれて、量産のことも現場でいろいろ伝えてくれたよね。

北島 鎌倉から豊岡に来たからこそ、そんな距離感で教わることができました。

ヒップベルトの量産を終えて乾杯!

——その後にStuff Pack XLを量産したんだよね。

北島 Stuff Pack XLは豊岡ファクトリーにとっては本当に思い出深い製品になっていて。去年12月の1泊2日の最終面接で、実施試験としてみんなにStuff Pack XLを作ってもらったんです。その後に実際に量産して、すごく学びがありました。

——いろんな壁を乗り越えて、いまのチームの状態としてはどうですか。

北島 最初はどうなっちゃうんだろうという不安な気持ちがみんなあったと思います。でも本当にメンバーみんな熱い人ばかりなので、パッションでそれぞれ動いてくれて。工場の道具の置き場所とか動線とか細かいところも含めて、みんなで協力して作り上げていきました。疑問に思うことは話し合える関係性でいたいねって中川とは話していて、毎日顔をつき合わせながら関係を積み重ねてきたので、お互いの理解も深まりましたね。

——次はまた新たなフェーズとしてMINIの袋部分の量産があるんだよね。それができたら、とりあえず最初の本懐は遂げる感じなのかな。

北島 ここを無事乗り切れるかどうかで、命運が変わってくると思います。毎回そうでしたけど。

中川 MINIを量産できればMINI2もほぼ一緒ですし、THREEもONEもそんなに変わらないと思います。ヒップベルトは、だいぶハードルが高かったですけど(笑)。

北島 今日、久しぶりにヒップベルトをまじまじ見たら、ちょっと吐き気がしてきました(笑)。

ヒップベルトを前に吐き気を催す北島。

——豊岡工場はいつまでの予定だっけ?

中川 数ヶ月の延長もありえますが、一応2026年の初夏くらいまでの予定です。10月からMINIの量産が始まるので、それに向けた工程表づくりからタカアキさんに教わる予定です。それを経て、あとどれくらいタカアキさんで研修が必要なのか分かるので、豊岡にいるべき残りの期間も分かる予定です。これは僕の中での理想なんですけど、豊岡には縁を感じるし、タカアキさんもいるし、豊岡自体も好きになっちゃったので、鎌倉と別の場所にも工場を作ったあとに、豊岡にもう一度工場を作るのも良いかなと思っていますね。

少しでも日本のもの作り業界に残せるものを

——やっぱりタカアキさんとのご縁は大事にしたいよね。

北島 宿南社長も、一生の付き合いだと言ってくれてます。

中川 あと、拠点がいくつかあったら冬にスキーをやりたいから半年だけ北海道の工場で働くような働き方を積極的にやれるじゃないですか。そういう環境をちゃんと作れたら、若い人も技術を身につけられて、お金ももらえて、その土地でやりたいアクティビティも自由にできて魅力的だと思います。5年以内にはそこまで持っていきたいですね。

——思ったよりも早くない⁉︎

中川 僕らもね、人生の計画が詰まってるんで早く行かないと(笑)。

北島 そういう自由な働き方ができる工場になりそうな予感が、今すごくあって。いろんな人が豊岡に来て、何かものを作って帰っていくとか。この間も台湾のsamplusのスタッフが来てくれたり、カザマナオミさんが作品作りのために滞在してくれたり。

山と道でもお馴染みのアーティスト、カザマナオミさんが滞在し、空きスペースになっている豊岡ファクトリーの3階で作品制作を行なった。

北島 量産でバリバリ採算を取ることも大事だけど、一方でそういう体験を提供したり、社内でもの作りをする場を作ることが、豊岡の価値でもあるなと最近感じますね。

中川 最初から鎌倉工場を作っていたら、そういうことはできなかったと思うんですよね。ある意味、目が届かない場所にあるから(笑)。「それって仕事なの?」っていうことに捉われずに、人が来てもの作りができる環境だと思います。いま滞在している16歳と17歳も、彼らの旅にタープが必要だからと一緒に作りました。それがもの作りを広げたり楽しんだりすることに繋がるし「これこそやりたかったことだ!」と思いましたね。なので、宿南社長に「あーせぇ、こーせぇ」言われても、「わかりました」って言いつつやれなかったり(笑)。

16歳の「おうすけ」君が豊岡滞在中に自分で作ったタープ。

日頃は黙々と馬車馬のように働くふたり。

北島 でも、タカアキさんからもいろんなことを学んでますよね。採算を取らないといけないシビアな面もあるので、そういう部分を真剣に考えてくれているタカアキさんからどこまで吸収できるかに、今後が懸かっていると思います。楽しいだけで終わらずに、タカアキさんのやり方を学んで、継続できる仕組みをうまく作れれば、少しでももの作り業界に残せるものができるんじゃないかという可能性を、今すごく感じている段階です。まだやり始めたばかりなので、実現には至ってないんですけど。

——そう語ってもらえて安心しました。ドツボにはまってたらどうしようと思ってたけど(笑)。

北島 やっぱりその両方あるのが山と道の工場なのかな、と。そういう仕組みができた上で、地元の主婦とか、子育てしている人とか、独身でコミットできる人とか、いろんな立場の人が楽しく関われる工場になったら面白いですよね。

——やっぱり何事も飛び込んでみるもんだよね。

中川 こっちに飛び込んだから、可能性が広がったのは間違いないと思います。鎌倉にいたらこれはなかったんで。

——こういった取り組みが、また山と道の新たな価値になっていったらいいよね。

豊岡ファクトリーに掲げられた「手を動かすこと(手仕事)で思考が生まれ、足で歩く(実行)ことで考える」という陶芸家・河井寛次郎が提唱した言葉。

②「やっぱりこのふたりの人柄が動かしてるんやと思うで」

タカアキ 宿南孝弘社長インタビュー

そして#1を読んでいただいた方なら、この方にもお話を伺わなくてはならないことをご存知でしょう。カバン縫製の世界で革新的な試みを続ける株式会社タカアキ社長であり、豊岡ファクトリーはこの方がいなければ始まらなかったと言っても過言ではない宿南孝弘さん。経験に基づいた厳しくも愛溢れるお言葉の数々に、豊岡スタッフ一同、頭の上がらない存在です。ぜひ、豊岡から日本のもの作りを変えていこうとしている熱い漢の声を聞いてください!

中川と北島は言うことを聞かない

——中川と北島が豊岡に来て1年ほど経ちましたが、振り返るとどんな感じでしたか?

宿南 大体ね、あの建物を工場としてチョイスすること自体、「うん?」って思った。

——昨年から仰ってましたよね(笑)。

宿南 工場は平屋が一番向いてるから、縦工場はあまりそぐわへんのよ。しかも柱はあるわ、階段は急だわで、「これ選ぶか?」みたいな。そんなところを工場として選んだ時点で、さすが勢いで豊岡に来ただけはある会社だなと。要するに北島も中川も、あれこれ言うことを聞かんわけよ。中川なんか笑いながら言うことを聞けへん。

——確かに思えば、工場の物件選びの頃から言うことを聞いてなかった(笑)。

北島 そもそもだったんですね…。

宿南社長には工場の物件探しや整備の段階から多くの相談に乗っていただいた。

宿南 特に北島は、腑に落ちてない時は顔を見たらすぐ分かるもんな。

北島 もしそれで失礼があったら申し訳ないです…。

宿南 いや、失礼ではない。ワシはもう一番最初にやるって言ったときから、それは中川と北島が来たからやるんであって、それは他の者が来たってせーへんっていう話をもうそのときにしたんやな。ふたりがそういう気持ちで来とるから、これ何とかせなあかんっていうのがあって。ほんでいろんな問題があったけど、今ようやく落ち着いたな。

中川 そうですね。やっと少し落ち着いてきました。

宿南 ほんでこの間ふたりを呼んで、「このままではあかん」って話をしたわけよ。だからこっからだと。こっからどういうふうに生産性を高めていくかっていうことを考えていかんと。でも北島は性格上、もう一生懸命やるんだわ。でもそれが過ぎるから、あれ何とかならんのかなって。

北島 いやあ、多分それは変わらないですね…。

宿南 ものすごい気持ちが入ったものにはなるなって思うんやけど、作用効率と出来上がりが合致せへん。ヒップベルトにしたって、なんであんな作りしてんねんて。「どういう作りにしたらいいですか?」って言うから、「サンドイッチでええやん」って言ったら、「サンドイッチってどういう意味ですか?」「サンドイッチを食ったことねえんか! サンドにするんや。それで縫ったらええやん!」って言うと、いやそれはどうたらこうたらって始まるから。

北島 やっぱり山と道のもの作りのインスピレーションを守らなければ、シワを少しでも伸ばさなければみたいな考えが強くありました。だけど宿南社長は現場の量産工程で、それをいかに効率良く、かつきれいにできるかを重視されていて。まずそこのスタートラインが違ってたんだなっていうのをすごく感じています。

——サンプルの段階ではまだ完成じゃなく、量産ラインに流れるものになって初めて完成品になるということですね。サンプルと量産の在り方は違うというか。

宿南 そうそう。3本作るのと2,000本作るのはワケが違う。2,000本作るなら、量産工程も想像しながらサンプルを作らなあかんから。だけど今の山と道って試作する人と量産する人が違うやん。タカアキでは量産でコンピュータミシンを使うなら、サンプル段階からコンピュータミシンで縫うようにしてる。作り方から作っていかんと、同じにはならないよっていう話。1点ものでやっていくなら、それは工場じゃなくて工房なんで。

——そうですね。

宿南 北島はもうパニクってたから。もう顔を見たら分かるわけよ。「悩んでます!」っていう旗がもう頭に立っとる。その文字がちょいちょい変わるんだよな(笑)。悩んどったのがヒラけたなって時は「チャララララン〜!」って日が昇るわけ。あれは面白かったな。

北島 いやいや、そうでしたか(笑)。2月、3月にスタッフのみんなが合流してから、タカアキさんの研修では量産ラインにどんどん入れてもらっていました。基本的に戦力になれない未経験者を組み込んでくれるなんて、普通だったらありえないことをやってもらっていて。タカアキさんにしかできないことだし、この関係性の中でやっていただけていることが、今でも信じられないです。

宿南社長にはスタッフ採用選考にも参加いただいた。

中川 この前は社会見学として小学生が来てましたよね。

北島 もちろん生産効率を上げて、売り上げを立てていることもすごいことなんですけど、地域貢献ができるような工場はなかなかないですよね。

宿南 最終的には、死ぬ前にいい人になって死にたい思いがある。それまでは悪いことばっかしてたから(笑)。それならせめて、(タカアキの自社ブランドで)ランドセルを作ったり、社会見学で「縫製って面白いよ」と伝えられて、小学生のなかでひとりでも興味を持ってくれたら嬉しいな。もの作りってやっぱり面白いんで。

豊岡に山と道が吹かせた風

——中川と北島が豊岡に来る前と後では、何か変わったことはありますか?

宿南 やっぱり影響はそれなりにあるし、こっちの考えも変わったで。山と道は会社組織とか評価基準にしても出来上がっとるから、ミーティングひとつとっても、こういうやり方があるんだって、いろいろ学ぶことがある。街の人もそうで、中川が知り合う人とワシが知り合う人は、たぶん真反対ぐらい違う。接点を持つことすらなかっただろう人と、中川を介して知り合ったり、こんなお店が豊岡にあったんだと驚いたりすることもあった。逆にタカアキっていう会社のことも、トップはこんな感じかってことも、分かってもらえたこともよくあったし。あと、『山道祭』の影響はやっぱり大きかったな。

琵琶湖の近江舞子で開催された2024年の『山道祭』。

——昨年の琵琶湖の『山道祭』には、宿南社長にも来ていただいて。

宿南 絶対に行くつもりはなかったんだけどね。ワシは場違いだと思ってたから。人生の中で知り合えない人と知り合ったという気がする。イェンス(イエンセン。山と道の拠点プロデューサーで、豊岡ファクトリーのリノベーションも手がけた)みたいな、あんなフレンドリーな外国人、見たことない。山道祭に行った時に会ったら、「おー、来たかー!」って。もう完全に仲間やんみたいな。だからこのふたりもそうだけど、スタッフ誰にしても、みんな個々のタイプがあるやん。山と道の工場の隣にある保育園とも、ほとんど接点なかったもん。

中川 その保育園に、カバンのカバみたいなマスコットキャラクターがあるんですけど、僕たちがここに来たことで接点ができて、それをモチーフにした園児たちが背負うバックパックをタカアキさんで作られることになって。

タカアキさん謹製の豊岡工場の隣の「カバンストリート保育園」のマスコットキャラを模した園児バッグ。好評につき大人用(右)も製作。

——これはさすがというか、作りもしっかりしてて、園児バッグとしては無駄に良くできてますね(笑)。

北島 保育園の子どもたちがこれを背負ってる姿を早く見たいです。

宿南 自分のタイプ的に、絶対にそんなことせえへんかってんけど。でも頼まれたら、やろうかなって。それこそ山と道が来て、人との繋がりって思いで繋がるんだっていうのを実感した。何十人もの園児がこれ背負ってチンタラチンタラ歩いてたらかわいいやろうな。

作り手の思いを伝える工場へ

——山と道としても、宿南社長のような方と出会えたこともご縁ですし、タカアキさんに入れてもらったDNAを大事にしていきたいですね。

宿南 最初に「ほぼ一生の付き合いになるで」っていう話をした。工場の方は、なんならようやくスタートラインに立ったかな。またこれから半年くらいで宿南レベルまで覚えてくれたら、素晴らしいことになるだろうな。やっぱり量産をする上で質とスピードを兼ね備えた会社は、たぶん日本にはない。その両方を兼ね備えてやる会社が、豊岡と鎌倉にできるんだろうなっていう気はしてる。こんだけカバン工場があっても誰も量産を考えてない。何でかっていうと、社長が誰も縫い方を全く知らへん。しいて言ったら、わしが元々おった会社のトップはそれができたんで、タカアキにはそれが落とし込まれているけどな。でもそれを次の世代にも落とし込んでいかなあかん。

宿南 日本のバッグが重宝されるのは、「おもてなし心」が入りまくっているからで、それは山と道も一緒だと思う。(山と道代表の)夏目さんも実際に使ってフィードバックを重ねながら、細かい調整を重ねとるだろう。あれもまさしくそう。でも、それを海外で作ろうとすると、生地が違うとか量が必要とか、悩みが出てくる。で、次の工場に行ったらまた同じことを教えなあかん。山と道は鎌倉に工場を作ることで、ここでやったことがそのまま伝わっていけば、もし縫う人が変わったとしても、思いと縫い方を伝えてもの作りを続けられるようになる。なんでこんな自信持って言うかっていうと、うちは鳥取工場とかいろんな工場でそれができたから。

——山と道としても、今後は鎌倉にも工場ができることで開発と生産が近くなって、きっとより良いもの作りができるでしょうね。

宿南 わしが生きとる人生の中で、こういう山と道のスタッフみたいな人と巡り合うということは、ほぼゼロやったもんな。死ぬまで知り合ってなかった。絶対。でも、やっぱりこのふたりの人柄が動かしてるんやと思うで。わし、いいこと言うな今日(笑)。

③ 1〜2年にも感じた凝縮された半年間

新スタッフ澁谷・廣澤インタビュー

最後に、この春から豊岡メンバーに加わった5人の中から、最年長の澁谷と元テントメーカー勤務の廣澤のインタビューをお届けします。それまでとはまったく違う環境に飛び込むという、人生でもビビッドな瞬間を過ごしているふたりに、この半年で見たこと、経験したこと、感じたことを大いに語ってもらいました。

(左)廣澤学治:豊岡では現場リーダーとして量産現場が円滑に進むよう日々試行錯誤している。仲間と共に豊岡生活も満喫中。
(右)澁谷亮一:豊岡ファクトリーでは現在主に生産部材の管理や裁断、仕上げ工程を担当。初めてのことばかりだが新鮮な気持ちで日々楽しく過ごしている。

独特だった選考プロセス

——まずはおふたりがどういう想いを持って豊岡工場の求人募集に応募したのか、聞かせてください。廣澤さんは前職が同業のテントメーカーで、澁谷さんはシステム系と全くの異業種からの応募でしたが。

廣澤 自分は元々山と道を知っていて、ユーザーでもありましたし、もの作りに対する姿勢が好きで。ちょうど去年、転職を考え始めてた頃に求人募集をみつけて、職種が近いこともあってチャレンジしてみました。

澁谷 私はもう全然違う業界にいて、昨年の春、56歳のときに希望退職制度に応募して前職を退職しました。人生で初めて長い休みに入ったので、これはチャンスだとばかりに満喫していたところで。知り合いにも「誘ってくれたらどこでも行くし、なんでもやるよ」と声をかけて。そのうちのひとりが登山に誘ってくれたんです。登山か…と思ったんですけど、なんでもやると言った手前行くしかないと。

コロナ禍に自転車に乗って一人旅をしてたので、ULギアを揃えていたんですけど、バックパックだけは持っていませんでした。重いのは嫌だからULのバックパックを調べると、当然、山と道が出てきますよね。それでウェブサイトを見ているうちに求人募集ページにたどりつきまして。「もの作り経験を問わず」と書いてあるし、「いつまでこんな感じなの?」と家族の目も厳しくなっていたので、ちょっと応募してみようと思ったのがきっかけですね。

——選考プロセスも独特だったかと思うんですが、どうでしたか?

澁谷 あんまりない選考だったよね?

廣澤 経験ないですね。最終選考では昨年の12月に1泊2日で豊岡に来たんですけど、みんなと初対面の中で、すごく濃い2日を過ごしました。

——どんなことをやったんですか?

澁谷 豊岡工場にみんなが昼過ぎに集まって、夏目さんも来られてて、輪になって自己紹介するところからスタートしました。

2024年12月に行われた選考の様子

廣澤 それから工場の機材を全部触ってみようということで、ひとりずつ裁断したりミシンをやったりしてStuff Pack XLを作りました。次にタカアキさんの工場に行って見学して、特にディスカッションもなく夜ご飯に行くことになったので、面接が終わったかと思いきや、「夢を隣同士で話して発表しよう」というのが始まったりして。全然気が抜けないし、とりあえずお酒をいっぱい飲みました(笑)。

澁谷 ガクちゃん(廣澤)、すごく緊張してたよね。

——面接を通して山と道に触れて、どんな印象でしたか?

澁谷 最終選考が終わってみんなが帰った後に、僕はもう1泊したんですよ。中川さんと北島さんに時間があるならと、豊岡にある城崎温泉をおすすめされて。行こうと思っていたら「なんだったら今から行く?」と、なぜか入社もしてないのに一緒にトラックに乗って、3人で露天風呂に入って話したんですけど、「これも面接なのか⁉︎」と。

——まだ続いてるのかと(笑)。

澁谷 そんな感じで、ちょっと面白い会社だなと思いました。

2月の澁谷加入から早々にスタッフで雪板遊び。

豊岡生活をエンジョイ中

——それから澁谷さんは2月から、廣澤さんは3月から合流したわけですけど、本当に縁もゆかりもない土地に来ることになったわけですよね。豊岡での生活はどうですか?

廣澤 自分は単身赴任なんですけど、久々の独身生活を楽しませてもらっています。

澁谷 ガクちゃんは、いちばん一緒に飲んでる人ですね。

廣澤 このあいだもふたりで山に行ってテントを張りましたね。

澁谷・廣澤で自転車で遠出して廣澤自作のテントを張った日。

澁谷 私も単身赴任という状態も初めてだし、結婚してから長期のひとり暮らしも初めてで。だから楽しいですね。荷物もそんなにないので、リビングにはホームセンターで買ってきた単管パイプを取り付けて、ハンモックを吊るして、毎日ハンモックで寝る生活をしています。これが非常に快適で、エンジョイしてます。

あとはやっぱり自然がいいですね。盆地なので見渡す限り山で、軽く登れる山はクルマで2〜30分行けばありますし、標高1,000mくらいの山も1時間足らずで行けます。海も近くて、サーフィンする人にとってもいい環境です。地元の人たちからすると、当たり前すぎてあまり価値を感じていないみたいですけど、アウトドアアクティビティをするには最高の場所なんです。

廣澤 海もすごくきれいですよね。

もの作り以前に仕組み作りからのスタート

——特に澁谷さんは異業種からの転職で、全然違う場所で全然違う仕事を始めてみて、どうでしたか?

澁谷 20〜30年ずっとIT系のシステム開発やインフラ開発に携わっていたので、特に最後の方はおのずと人に教える立場になっていました。それが180度変わって、すべて聞いて教えてもらう立場になって。予想が一切できないし、この歳になっても、こんなにも自分の感情が一喜一憂するのかと、すべてが新鮮でしたね。日々そんな状態だったから、振り返ると半年の時間の厚みがすごくて、1〜2年を過ごしたような凝縮具合でした。対照的に、コロナ禍では2年近くリモート生活だったので、毎朝起きてご飯を食べて机に座ってパソコンのスイッチをポチ。会議が始まって、終わって、そんなことをずっと繰り返していて外に出る機会もなかったので、半年くらいの濃度でした。相対性理論とはこういうことなんだと。

入社した途端に量産をすることに。

時には澁谷・廣澤でトランペットでセッション。

——廣澤さんはどうでしょう。関わる前と後で、山と道の見え方は変わりましたか?

廣澤 自分も入社してから半年間は本当にあっという間でした。やっぱり前職とは会社の空気も、もの作りの考え方も違うので、全く別の世界に来たような気がしていますね。ただ、山と道への印象は基本的には変わっていません。やっぱり常にいいものを作ろうと試行錯誤をしている様子は伝わってきていたので。入ってみて、思ったよりもやることがたくさんあって大変だったけど、すごく楽しくやっています。日々チャレンジですね。

——タカアキさんのような工場に触れるのも初めてですか? 

廣澤 はい。バリバリ量産をやってるところには初めて入ったので、勉強になりました。

澁谷 私は逆に前の職場で工場に行くことが多かったんですけど、電子機器だったので自動化されていて、人があんまりいませんでした。タカアキさんの工場に行って、人がこんなにいるんだと逆に驚きましたね。それに、「いきなり量産ラインに入れられちゃうんだ!」と。

——タカアキさんは、それで成り立つ仕組みがあるのがすごいですよね。

澁谷 そうですね。失敗を許容してくれてる雰囲気がありました。とはいえ当事者からすると、売り物なのにどうしようみたいな緊張感が大きくて。

タカアキさんでの研修の様子。いきなりこちらでも量産ラインに入る!

——そしてタカアキさんでの研修が終わって、いきなりONEのヒップベルトを作ることになったと。澁谷さんが進行表とかを作ってくれて助かったと聞きました。

澁谷 ほんとバタバタでしたね。何をどうしたらいいんだろうという状態だったので、多少なりとも力になろうとやってました。

廣澤 もの作りの前に、仕組み作りから始まりましたからね。

澁谷 機械の配置もしょっちゅう変えていて、今も同時並行で環境を整備している状態です。たまにガクちゃんとも話すんですけど、環境を整えるうちに、「ここだ!」というところが見つかって落ち着くんじゃないかと思っていたんですけど、人が変わると配置も変わるので、終わりはないかもしれないですね。

——山と道の大仏研究所もずっとベータ版みたいな感じですからね。社内環境も毎年どんどん変わっていって、これまで前年と同じような年は1回もないなというのが実感です。

澁谷 山と道の求人募集や、豊岡工場の記事や動画を見ていたときに、なんとなく前職の会社の初期に似ているなと感じました。会社の規模はそれなりに大きかったんですけど、社長ひとりでやっているベンチャーのような雰囲気があって。朝礼で言ってた話と昼礼で言ってる話が違うみたいなことが、社内中で巻き起こってて。当時はそれを楽しむ余裕がなかったんですけど、振り返るとそのスピード感が楽しかったなと思えて。それからどんどん人が増えてちゃんとした会社になっていく過程を経験したんですけど、山と道があの当時の会社と同じ匂いがするなと思って。それも応募の理由のひとつだった気がします。

連載『HIKING AS LIBERAL ARTS』にも登場いただいた西村佳哲さんをお招きして行ったワークショップで「ULマインドの工場とは?」というテーマでディスカッションを行った際のメモ。今の縫製業界の問題点から、山と道の自社工場がどのような方向に進むべきか、また、UL的な考え方を工場に適応したときどのようなことができるかについて激論が交わされた。

試行錯誤は続く

——みなさんが鎌倉に合流すると人も増えるし、また山と道も変わりそうです。

澁谷 そうですね。山と道の人たちは、自社の製品に対しての愛が強いと感じます。MYOG(ギア自作)に慣れ親しんだ人も多いでしょうし、作る行為が好きな上に製品への愛着があることは強みですよね。技術さえあれば、全員が同じ思いを持ってクオリティの高いものを作るポテンシャルを秘めている、そんな可能性を山と道に感じています。

——開発から量産まで一気通貫して行えると、よりお互いの意思疎通が取りやすくなるし、山と道としてのもの作りの理想形もそこだと思うんです

澁谷 やっぱりディテールの確認となると、現物を鎌倉に送って数日確認を待つことも結構あったので、現場が一緒であれば連携がよりスムーズになりますし、効率よく進められる気がしますね。

——北島と中川は、これまで半年間一緒にやってきて、どうでしたか?

廣澤 あのふたりがいてくれて、本当に良かったなと思います。いろんな面で支えてもらっていますね。

澁谷 いいコンビだなと。お互いに良いところを尊重し合ってると感じます。ゼロから0.1にでもすることは、非常にパワーがいるじゃないですか。それを始めたということをとてもリスペクトしていて。どちらかひとりだったらできなかっただろうし、あのふたりが揃って初めてできたんだなと感じますね。

——来年、豊岡メンバーが鎌倉に合流するのを楽しみにしています!

長文最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

取材を進めた自分としても、豊岡メンバーの動向が、そして来るべき新工場が一体どんな形になるのかとても楽しみになってきましたし、新しい何かを始めることはものすごく大変だけど、でも始めてみれば、そこからまた絶対に何かに繋がっていくんだと思わせてくれる取材でした。

この航海はまだまだ続きますので、ここまで読んでくれた皆さんは、ぜひ次回もお付き合いくださいね。