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    HIKING AS LIBERAL ARTS

    #6 坂本大三郎:山にこもり、日常に還る(後編)

    成人儀礼としての「こもる」と、山伏ならではの山を生き抜く知恵
    企画/取材:豊嶋秀樹
    構成/文:渡邊卓郎
    編集/写真:三田正明
    2026.02.27
      HIKING AS LIBERAL ARTS

      #6 坂本大三郎:山にこもり、日常に還る(後編)

      成人儀礼としての「こもる」と、山伏ならではの山を生き抜く知恵
      企画/取材:豊嶋秀樹
      構成/文:渡邊卓郎
      編集/写真:三田正明
      2026.02.27

      山と道HLCディレクターの豊嶋秀樹をホストに、身体行為としてのハイキングをリベラルアーツ(生きるための学問)として捉え、同じく身体行為である「見る」ことや「聞く」こと、「食べる」ことなどを手掛かりに、ハイキングのその先にある価値と可能性を探っていく連載『HIKING AS LIBERAL ARTS』。

      #6後編となる今回も、引き続き山伏・芸術家の坂本大三郎さんに、成人儀礼としての「こもる」ことの意義と、山伏ならではの山の歩き方について、さらに深く話を聞いた。

      山伏にとっての山の意味

      ——山伏の人々にとっての自然との関わりや、山に入るという行為はどんな意味を持っているんでしょうか。

      私は、山伏の文化が成人儀礼と関わりがあったのではないかと考えているんです。ある年齢になった時に、山や洞窟などの聖なる世界に入り、そこで行われる儀式を経て、日常の世界に戻ってくる。その経験を経て、社会を担う存在になっていく。その儀式や方法が、今に伝わっているのが山伏の世界です。昔は、日本でも、小さい子供は神様や仏様の世界に属している存在だと考えられていたと思うんですけど、それが大人になっていく過程で、子供から大人へと変化させるための儀式が、山や洞窟といった聖なる世界の中で行われている、ということだと思うのです。それを、今に伝えている存在のひとつとして山伏があります。僕は、そういった世界に自分で足を踏み入れて、どんなものが見えてくるのかっていうことに関心があるんですけれど、成人儀礼は、人間にとって、すごく普遍的な構造があるんじゃないかと思うんです。こうした儀礼を執り行うのが共同体につくられた秘密結社で、共同体に属する神話やそれに伴う作法などが厳重な秘密とされ守られています。山伏が山の中で行う修行も固く秘密が守られているところにも、古層の文化が持っていた構造がまだ生きて機能していることを感じさせます。

      取材は2025年12月に九州・九重連山の法華院温泉山荘で坂本さんも登壇した『ハッピーハイカーズ法華院ギャザリング2025』で行った。『法華院ギャザリング』については過去2度山と道JOURNALでもレポートを掲載。

      ——世界には様々な成人儀礼があるんでしょうね。

      死の世界に触れることによって成人となる儀礼は、日本だけでなく広い地域で行われていました。古い文化で生きている人たちには、どこでも同じような儀式が残っているんです。

      ——なるほど。現代日本における現代の成人儀式は成人式ということになるのかもしれませんが、かなり形式的なものに感じられます。そういう意味では、子供から大人になる機会を得にくくなっていると言えそうですね。ところで、坂本さん自身は、山へは修行として入っているんですか?

      山伏にとって、山は修行の場でありながら、生活の場でもあります。私の妻の実家が月山で旅館を営んでいるんですけど、かつての山伏にとっては、そんな風に街から来た人たちを世話することも仕事のひとつでしたし、そのために山菜を取ってくることもそうだと思います。山は聖山でありながら、自分たちの命を支える身近な生活の場でもある、と考えています。

      ——山を聖山として捉えているだけではないということですね。

      聖山でありながらも、生活の場でもあるという感じですね。だから、聖山とされている山でも、山頂のあたりには、そういった雰囲気が漂っていると思いますが、もうちょっと下の、森であるとか、人の生活に近いような自然の中っていうのは、信仰の対象でもありながら、もっと身近な、自分たちの命を支えていく場所っていう存在なんだと思いますね。

      出羽三山の山々。(写真提供:坂本大三郎)

      ——山伏の修行で得られるものは、山にこもるという胎内回帰を経て、新しい自分になって俗世に降りてくるってことだと思うんですけど、「ここから先はあちらの世界」といった、結界のようなものが山の中にあるんですか?

      現在も大峰山の奥駈道にあるような女人禁制の場所は、かつては日本各地の山に多くありました。そういった山では、境界線によく姥(うば)様という民間信仰の老婆の神仏の像が置かれています。三途の川のほとりで、死者の衣服を脱がして、その衣の重さで罪を量る「奪衣婆(だつえば)」という老婆の鬼がいるんですが、この世とあの世の間にいる奪衣婆っていう存在と、姥様の姿が混合していって、何かと何かの境界線によく姥様の像が置かれることが多いようです。月山の周辺だと、姥様の像を境にして、女人禁制のエリアになったりします。姥様の像は道祖神的な感じで置いてあることが多いですね。

      ——日本の山って、聖山的な山がすごく多いから、ハイキングをしていても、知らないで歩いているということが多いんでしょうね。

      登山道自体、ほとんどの道が、むかし山伏がつくったものですからね。ヨーロッパだと、登山道ってすごく緩やかで歩きやすいとこが多いじゃないですか。それに対して、日本の山の登山道は急な直登ルートが多いというのも、山伏がつくったからなんです。

      山伏ならではの、山で生き抜く知恵

      ——山伏流の、山で生き抜く知恵のようなものはありますか?

      知恵って言えるかどうか分からないですけど、山で遭難しても困らないというのはあります。道が分からなくなっても、「あ、道はないけど、ここはまっすぐ行って、あそこまで行けば大丈夫だな」って思えるようにはなりました。道が分からなくなっても「ここからあそこまでなら、藪漕ぎしても行けるだろう」と思える感覚を持つようになりました。自分のいる山については、地形を大体把握していて、あそこに行けば何があるのかっていうのは大体分かります。

      ——すごいですね。基本的に僕らがハイキングで歩くのはトレイルなので、トレイルのないところを藪漕ぎして進むという経験はほとんどないですね。山での食料について何かあったりしますか?

      出羽三山には「柴燈飯(さいとうめし)」という、焚き火と葉を使ってご飯を炊く技術があったらしい、という話が伝わっています。以前、その研究をしていたことがありました。ホオノキの葉のような大きめの葉に米を包み、蒸すのではないかと考え、何度も実験して試行錯誤してみたのですが、なかなかうまくはいきませんでした。実験のなかで、いちばんおいしく炊けたのは、竹筒に米と水を入れ、それを焚き火の下に埋めた方法でした。竹の香りがご飯に移り、とてもおいしく炊き上がったのです。ただ、出羽三山の山中には竹がありません。そう考えると、この方法ではないだろう、と。結局のところ、答えを知っている人はいないので正解はわからないのですが、現在は、干し飯を葉に包んで蒸すものが「柴燈飯」だったのではないかと考えています。干し飯は足軽や忍者も保存食として利用したとされているので、山伏らしくもあります。

      ——干し飯は僕もよく使っていました。くじゅうの麓にドライブインがあって、そこにも玄米で作った干し飯が売られていて、ここにきたらよく買います。お湯を沸かさなくても、水でも戻せるし、いいですよね、干し飯。

      それと、こうした実験を繰り返すなかで、もうひとつ発見したことがあります。それは、樹皮で作った「鍋」でもお湯が沸かせる、ということでした。30cm角の樹皮の中央を窪ませ、そこに水を入れ木で作ったトライポッドと植物の蔓で樹皮を吊り下げて焚き火にかけるというものです。後になって知ったのですが、土器が作られる以前には、樹皮を使って煮炊きをしていた可能性がある、と考える考古学者もいるようです。そうした技術が、たとえ話のかたちであっても今に伝わっていて、それを実際に試行錯誤しながら再現してみる。その過程そのものが、とても楽しいと感じています。

      ——山伏クッキング、興味深いですね。坂本さんは、山の幸と言いますか、食べられる山菜とかキノコとか、木の実とか、そういうものにも詳しいですよね。

      個人的に元々関心があったということもあるんですけどね。山の幸や、お腹が痛い時に効く薬草などにも詳しくなってきますね。冬の終わりにはカエデの樹液からメイプルシロップが採れ、春になると山菜が芽吹く。梅雨の時期には樹皮を採り、夏の終わりにはアケビの蔓を集め、秋はたくさんキノコが生えます。さらに、植物が茂る季節にはさまざまな効能をもつ薬草も採れるため、1年を通して山の植物はにぎやかです。

      ——装備っていうとちょっと違うかもしれませんが、山伏の装束の時は、ある意味不必要なものは何も持ってないから、ウルトラライトと通ずるとこもあるなと思うんですけど、山では、生活道具も持って歩いてるんですか?

      その時々によって違いますね。修行中は、出羽三山だと「笈送り(おいおくり)」という食料を提供してくれる人がいるので、ひとりで山に入る時のように、食料を担いで歩いたりはしません。私がひとりで山に入る時の装備は現代的な装備です。

      法華院から九重連山の大船山方面を望む。

      山にこもり、日常に還る

      ——ハイカーの読者にとって気になるところだと思うんですが、修行で山に入る時には、足元は何を履いているんですか?

      私はいつも地下足袋です。ワラジでもいいんですけど、できるだけペラペラのやつを履いています。そういう履き物で山の中を歩いていると、小石の感覚も分かるんです。慣れない人がそういう履き物で歩くと、足が痛くなる石の踏み方をしちゃうと思うんですけれど、慣れてくると、石に対しての足の角度とか、そういうことを考えないでも歩けるようになってくるんです。今、地下足袋を履いている時と登山靴を履いている時の疲れ方の違いがあるのかどうかを知りたいと思っているんです。私は登山靴を履いて山に入ることがないので、違いが分からないんですけどね。

      ——ハイキングの世界でもベアフットやゼロドロップと言われるような、ソールの薄いシューズやサンダルを履いている人が多くなりましたが、それらは、荷物が重くなったり、長い距離を歩くと物理的に足への負担が大きくなるという側面もあります。ただ、ネパールではポーターが重い荷物を背負いながら、サンダル履きで標高5,000メートルほどの山を登っているのを見て、すごいなと思いました。

      自分もサンダルとかで山に入っちゃう時があるんですけれど、なんかむしろそっちの方が調子いいような感じがする時ありますね。普段歩いている時も、靴底が分厚い靴を履いていると、足の裏の筋肉や神経が、サボったまま歩いてしまっているなと感じています。

      ——裸足に近い状態で歩くことで、眠っていた筋肉や神経が活性化されてきたり、普段靴の中で固まっていて、使えていない指を使えるようになったりしますよね。山伏ならではの山での歩き方があれば、知りたいです。

      おそらく、ハイカーもそうだと思うんですけど、長い時間歩いていると、頭と心が空っぽになって、複雑な地形の道を歩いていても、体が勝手に動いているのに、自分の頭と心の中は何もないみたいな状況になります。瞑想みたいなことをしていても、体はごく自然に動いていたりとか、あるいはその逆で、頭は動いているんだけど、体はすごく落ち着いているとか。その状態をつくりやすくする方法として、山を歩いている時に「どう地面と接するか」を意識することを大事にしています。

      ——ヴィパッサナー瞑想(※人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法として指導されてきた、インドで最も古い瞑想法のひとつ。ヴィパッサナーは「ものごとをありのままに見る」という意味を持つ)には「ラベリング」という方法がありますね。

      ヴィパッサナー瞑想では、座る瞑想だけでなく、歩く瞑想も実践されています。そこで行われる「ラベリング」、つまり身体に湧き起こってくる感覚を客観的に観察する方法には、こうした身体感覚への向き合い方と通じるものがあるのかもしれません。

      あと、歩き方ではないんですが、座禅の姿勢が、人間の体の構造に合っていることを、穴にこもっている時に気がつきました。ドクメンタの時なのですが、通常、私は人間が立てるぐらいの穴の深さを掘りたいんですけど、その時いろんな人に手伝ってもらっていて、「もっと掘って」って言えなかったこともあって、ちょっと浅い穴だったんですよ。人間が横たわれるぐらいの深さの穴で、そこにずっと座っているか、寝っ転がるかしかできなかったんで、体がすごく気持ち悪かったんです。その時、すごく変な体験をしたのですが、それも姿勢が影響していると思います。姿勢ってすごく大事なんです。座禅をする時に、すごくうるさく姿勢について言われるけれど、そういうことかと思って。初歩的なことですが、体験を通じて腹落ちしたことが自分にとっては大きな出来事でした。

      ——歩いている時でも、じっとしている時でも、正しい姿勢がもたらすものは大きいんですね。

      座禅をする時って、あぐらを組んで、手を前に組んで、ずっと長い時間その姿勢でいますけど、あの姿勢には意味があるんですよね。長時間その体勢でいても人間の体がダメージを受けにくい姿勢なんです。だからこそ、心身の変化が起こるまで耐えることができるのです。さらにそれを考えると、人間が立っていることというのも、すごく大事だなと思っています。人間って、普通に暮らしているといろんな感覚がサボるみたいなんです。

      ——ハイキング中には、普段、街にいるときよりもあまり気にしないような足の運び方に意識が向いたり、森の香りや雨の匂いなんかが強く感じるような気がします。歩くことには、感覚を目覚めさせるものがありそうですね。

      そうですね。特にそれを強く感じるのが、険しい崖に山菜を採りにいくときです。そこにはクマも生息しており、足を踏み外せば大怪我をするだけでなく、下手をすれば命を落とすこともあります。実際、私の山菜採りの師匠でもあった義父は、かつて崖から転落し、頚椎を損傷する重傷を負いました。幸いにも奇跡的に回復し、周囲が止めるのも聞かず、再び山菜採りに出かけるほどになりました。そのような過酷な環境では、日常生活の中では眠っている感覚を総動員しなければなりません。そのため私は山に入る前、足の神経を覚醒させる目的で、足裏の各所に意識的に体重をかける準備運動を行います。そうすることで、身体全体のバランスが整っていくように自分では感じています。

      ——なるほど、神経を覚醒させるための準備運動っていうのはいいですね。

      私は芸術や芸能の起源を探求したいと考えていますが、「こもり」や「自然の中を歩くこと」を通じて、再び「日常」に還ってくることも同じくらい重要だと思っています。そうした往還のなかで立ち現れる心の働きにこそ、何か大切なものがあるのではないかと感じています。

      ——なるほど。「行くだけでなく、ちゃんと帰ってくること」の大切さはこの連載の#1に登場してもらったロジャー・マクドナルドさんも話されていましたね。坂本さんにはまだまだ聞きたいことがありますが、エンドレスになっちゃうので今日はこの辺りにさせてもらおうと思います。ハイキングは身体感覚を覚醒させる力があるんだと、坂本さんの話を聞きながら思いました。興味深い話をありがとうございました。

      坂本さんの話を聞いて

      個人的に、坂本さんとの付き合いは古く、これまでも僕が企画する展覧会にアーティストとして参加してもらったり、坂本さんが手がけるパフォーマンス作品のプロデュースを手伝ったりしてきた。そのたびに僕が感じていたのは、同じ山や自然の中を歩くといっても、僕たちのハイキングと、坂本さんの「山を歩く」という行為は、何か別種のもののようにも思える一方で、同時にどこかで重なり合っている部分もある、という感触だった。

      それはおそらく、自然の中に踏み込んでいく過程で、普段の生活では休眠状態にあるさまざまな感覚が開かれていくことによってもたらされる、「いつもと違う場所にいる」ような、非現実感を伴う状態なのだろうと思っている。

      この連載の第1回で聞いたロジャー・マクドナルドさんの洞窟壁画の話が、坂本さんの口からも出てきたのは偶然ではなく、やはりそこには変性意識状態というものが関わっているのだと思う。坂本さんは、洞窟を母胎になぞらえて話してくれた。そこでふと思ったのが、僕たちが山で泊まるときに使うテントも、少なからず同じような作用を生んでいるのではないか、ということだ。

      テントに潜り込み、ジッパーを下ろすと、そこは幕一枚ではあるが、外の世界と隔てられた空間になる。そこに僕たちは「こもる」。ハイカーたちの胎内回帰というと大袈裟かもしれないが、そうした感覚を意識しながらテントに入ってみるのも、なかなか興味深い。

      最後に、歩くことの瞑想的な効果についての話題も出たが、これについては山と道JOURNAL編集長の三田正明によるこちらの記事に詳しいので、ぜひこの続きとして読んでもらいたい。

      坂本さん、今回はどうもありがとうございました。僕は今のところ山伏になろうとは思っていませんが、山伏マインドで山を歩いていこうと思います。またどこかで、一緒に山に入りましょう。

      連載「HIKING AS LIBERAL ARTS」