カナダ国境からメキシコ国境まで、アメリカ中部の分水嶺に沿って5,000kmにも渡って続くコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)。「トリプル・クラウン」と呼ばれるアメリカの三大ロング・ディスタンス・トレイルのなかでも、もっとも歩く人が少なく、難易度の高いトレイルです。
そんなCDTを、パシフィック・クレスト・トレイルを2015年に踏破したスルーハイカーであり、イラストレーターとしても活動するSketchこと河戸良佑が、2017年に歩きました。これから始まるのは、彼の遠大なハイキングの記録です。
イラストを書きおろしてくれるのはもちろんSketch。5ヶ月、5,000kmに及んだ彼の旅に、どうぞお付き合いください!
ロング ディスタンス ハイキングという名の旅
2017年6月18日、僕はカナダのピンチャー・クリークという町にあるドーナツチェーン店で、コーヒーを啜りながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。ピンチャー・クリークはカルガリーから200kmほど南に位置し、ドーナツ店とガソリンスタンドしか無いような小さな町だ。日が昇り、窓の外にハイウェイが薄っすらと姿を現し始めても、そこを走るクルマはなかった。
これは困ったな、と甘ったるいドーナツを頬張りながら思う。
僕は『コンチネンタル・ディバイド・トレイル』と呼ばれるアメリカのロング・ディスタンス・トレイルを歩くために、この場所から80km離れたウォータートン国立公園に向かおうとしていた。カルガリーからこの町までバスで移動して来たが、ここから先は交通機関がないので、ヒッチハイクで移動する他ない。
全く交通がないハイウェイを目の前にして、不安は募るばかりで、少しでもヒッチハイクの成功率を上げたいと考え、バックパックからグランドシート用に持ってきた白いタイベックシートをテーブルの上に広げ、油性ペンで大きく「Hiker to WATERTON」と書いた。
タイベックシートにヒッチハイク先を書く
アメリカには、全行程を歩くと5ヶ月以上かかる有名なロング・ディスタンス・トレイルが3つある。
ひとつは、東海岸の14州にまたがる約3,500kmのアパラチアン・トレイル(AT)。もうひとつは西海岸のカリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州とアメリカを縦断する約4,200kmのパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)。そして僕がこれから歩こうとしているコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)は、アメリカ中部のモンタナ州、アイダホ州、ワイオミング州、コロラド州、ニューメキシコ州の分水領を繋いだ5,000kmにも渡るトレイルだ。
トレイルの難易度はAT、PCT、CDTの順番に上がると言われ、僕は2年前にPCTをワンシーズンに全行程を歩くスルーハイクと呼ばれる方法で踏破していた。今回は更に難易度が上がるCDTを、約5ヶ月かけてスルーハイクをする計画でいる。
AT、PCTは、ほとんどのハイカーが北上ルートで歩くのに比べて、CDTは北上、南下共に一定数のハイカーがいる。前回のPCTはメキシコ国境から北上してカナダ国境でハイキングを終えたので、それを折り返すように今回は南下ルートを歩くことにしたが、どちらの方向が自分にとって最善なのか、よくわかっていなかった。
実際のところ、トレイルヘッドを目前にしたこの時点においてもCDTがどのようなトレイルなのかを、それほどはっきりと理解していない。5ヶ月にも及ぶトレイルの全貌を理解することは至難であるし、いくらガイドブックを見ても、インターネットで情報を検索しても、実際に歩いてみないと本当に大切なことはわからない。だから、とくに焦る気持ちはなかった。
ウォータートン国立公園へのヒッチハイク
店を出て、ウォータートン国立公園へ伸びるハイウェイへ向かった。日が昇ったばかりで気温は低く、吐く息は白い。ハイウェイの広い中央分離帯でバックパックを地面に下ろし帽子を脱ぎ、行き先を書いたタイべックシートを抜き出し、いつ車が来ても対応できるように備えた。しかし、そんな想いに反して、1時間経ってもハイウェイを走る車は現れず、やれやれこれは長丁場になるかもしれないな、と気が重くなってきた。
更に30分が経過した頃、待望のクルマが遠くから向かってきた。これは何としてでも成功させなくては。2年ぶりのヒッチハイクに少し緊張しながらも精一杯の笑顔を作り、文字がしっかり見えるようにタイベックシートをピンと張って高く掲げ、「乗せてくれー!」と日本語で大きく叫ぶ。
その瞬間、僕とドライバーの視線が交差し、クルマはゆっくりと減速して10mほど先に停まった。急いでバックパックを担いでクルマへ駆けると、ガコッとドアが開き、男性のドライバーはこちらを見て「荷物はトランクに入れてくれ」と短く言った。
まさか、1台目で車が捕まるとは本当に幸運だ。バックパックをトランクに放り込み、急いで助手席に滑り込むと、車は静かに発進した。
国立公園で働くクリス
どれくらい待ったんだい?」ドライバーは日に焼けて健康的な印象で、年齢は40代後半くらいだろか。
「1時間30分程ですね。乗せてくれて本当にありがとうございます。とても助かりました」
「ははは、問題ないさ」
「僕はスケッチです。これからCDTを歩く予定なんです」
スケッチとは僕のトレイルネームだ。トレイルネームはロング・ディスタンス・ハイカー同士が呼び合うアダ名のようなもので、ハイカーの特徴やトレイル上の出来事で名付けられることが多い。僕はPCTで絵を描きながら歩いていたので、「スケッチ」と呼ばれるようになった。
「私はクリス。ウォータートン国立公園で働いているんだ。オフィスまで連れて行ってあげるよ。もしよかったらコーヒーでも飲むかい?」
そう言うと、彼はコーヒーの入った水筒をこちらへ差し出した。ふわりと香ばしい香りが漂う。
暖かいコーヒーは冷え切った僕の体を優しく暖めた。何もない草原に伸びるハイウェイの先には雪を被った大きな山々が聳え立ち、その山々がこちらをじっと見ているような気がして、僕は少し落ち着かない気持ちになった。
ウォータートン国立公園
1時間ほどでクルマはウォータートン国立公園のオフィスに到着し、「じゃあ安全にな」と言って、彼は職場へ向かった。簡素なオフィスに入ると若い職員が「何かお困りですか」と話しかけてきた。
「僕はCDTハイカーです。キャンプ地の予約がしたいのですが」
ウォータートン国立公園内ではテントを張るために、指定されたキャンプ地を前もって予約する必要があるのだ。
「残念だけど、君が歩こうとしているハイライン・ルートは、国境を越えたアメリカ側に残雪がまだ多く残っているんだ。だから、キャンプ地の使用を許可できない」
数週間前にCDTを歩こうとしたハイカーが、雪の多さに引き返したことも聞いてはいたが、もう6月中旬になり、それ程雪が残っていたないだろうと考えていたので驚いてしまった。
ウォータートン国立公園のオフィス
「しかし、グレーシャー国立公園のチーフマウンテン・ルートならオープンになっている」と職員は続ける。実はCDTの南下ルートには、ふたつのスタート地点がある。ひとつは今いるウォータートン国立公園から歩くハイライン・ルートで、険しいぶん美しいルートとして知られており、カナダから歩き始めてアメリカのグレーシャー国立公園に入る。もうひとつはグレーシャー国立公園から歩き始めるチーフマウンテン・ルートで、標高が低いため、残雪の影響は前者と比較すると少ない。
できればハイライン・ルートを歩きたかったが、許可が下りないのでは仕方がない。僕はまずアメリカへ陸路で移動して、チーフマウンテン・ルートから歩き始めることにした。レンジャーが言うには、チーフマウンテン・ルートですらいまだにかなりの雪が残っているらしい。今年のトレイルの状態は、想定していたよりも、ずっと厳しいようだ。
ヒッチハイクでアメリカに移動する前に、ウォータートン国立公園を少しハイクすることにした。オフィスを後にし、綺麗に整備された細いトレイルに入る。30分ほど歩くと高度が上がり視界が開けて、深い青色のアッパー・ウォータートン・レイクが眼下に見えた。その向こうには巨大な山々が、白い雪を纏ってキラキラと輝いている。
ある程度登ると、今度は急な下り坂が湖まで続き、その先の開けた場所にポツリとCDTのモニュメントが寂しそうに立っていた。石柱のモニュメントの片方に「CANADA」、もう片方には「UNITED STATES」と彫られている。つまり、ここがカナダとアメリカの境界なのだ。そこにはフェンスも線もなかった。
湖畔に佇むCDTモニュメント
モニュメント付近を少し散策し、また来た道を戻る。途中、岩に腰をかけて休息を取っていると、ひとりの男性ハイカーが声をかけてきた。
「ハイ! 調子はどうだい?」
「まぁまぁだね。君は?」
「いい感じだよ。二日ほど国立公園をハイクしてたんだ。俺はイヴァン。君は?」
「よろしく。僕はスケッチ。CDTハイカーだ」
少し立ち話をするとお互い同じ方向へ進むことがわかったので、一緒に歩くことにした。彼と美しい景色を眺めながら、ハイキングの話にでも花を咲かせようと思っていたが、その思いは歩き始めて5分で早くも散ることになった。彼の歩く速度が、とてつもなく速いのだ。美しい景色など見る余裕は無く、ただただ湿った色濃い地面と、そこへ滝のように落ちる汗を眺めて歩き続けた。心臓は今にもはち切れそうで、太ももは痺れてきている。もう限界だ、彼と歩くのはここまでだ、と思ったその時、彼がこちらを見て言った。
イヴァンとのハイキング
「俺はアメリカ側の国立公園で働いていて、明日は出勤だから、急いで帰宅してるんだ」
「え、じゃあ君はどこに住んでるの?」
「セント・メアリーという町さ」
「なんだって!」
思わず大きな声が出た。なぜなら、次にヒッチハイクで向う計画をしている場所こそ、国境の向こうの町、セント・メアリーだったのだ。
「ちなみに、君のクルマに同乗してセント・メアリーまで連れて行ってもらうことは可能なのかな?」
「もちろん!」
僕は這いつくばってでも、彼から離れないと心に誓う。途中何度か意識が遠のいたが、なんとか遅れることなく彼のクルマまで辿り着いた。国立公園を後にし、カナダとアメリカのイミグレーションを越え、セント・メアリーに到着した頃には、もう19時を過ぎていた。イヴァンはレンジャーステーションの前でクルマを停めると「何かあったときはここに連絡する様に」と彼の連絡先を書いた紙を渡して去っていった。手頃な場所にテントを張って夕食を取り、寝袋に潜り込むと、気絶するように眠りに落ちた。
5,000kmの徒歩旅行の始まり
目を覚ますと、すでに日が昇り明るくなっていた。朝食のスナックを齧りながら、CDTを歩き始める前に再度、ギアのチェックをしてみることにする。タイベックシートを広げ、その上にギアをひとつひとつ並べていった。
バックパック/ゴッサマーギア マリポサ
シェルター/シックス・ムーン・デザインズ スカイスケープ・トレッカー
シュラフ/ナンガ オーロラDX
クッカー&ストーブ/ジェットボイル
マット/山と道 UL Pad 15+
トレッキングポール/フィザン トレッキングコンパクト
スノーシュー/スーパーカンジキ
スノースパイク/マイクロスパイク
シューズ/モントレイル カスケーディア
レインシェル/コロンビア アウトドライEXエコインシュレーテッドシェル
レインパンツ/マウンテンハードウェア エクスポーネントパンツ
ショーツ/ H&Mの水着
ベースレイヤー/山と道 メリノヘンリーTシャツ
ミッドレイヤー/山と道 メリノフーディ
シャツ/襟付きシャツ
ヘッドライト/ブラックダイアモンド
画材/スケッチブック2冊、ペン数本、水彩絵の具
コンパクトデジタルカメラ
主要なギアの不足はなさそうだ。広げたギアをバックパックに収めてレンジャーステーションに向かい、キャンプ地の予約を済ませた。
この場所からチーフマウンテン・ルートのトレイルヘッドまでは、またヒッチハイクをしなくてはならず、数時間かかるかもしれない、と覚悟していたが、30分ほどでクルマが停まり、呆気なく辿り着いてしまった。トレイルヘッドは昨日越えたイミグレーションのすぐ近くにあり、僕は誘われるように、駐車場から一本だけ伸びたトレイルにふらりと入る。少し進むと、CDTのサインが打ち付けてある木製の掲示板があった。もう既に5,000kmに及ぶトレイルは始まっているようだ。今日からは、このCDTのトレイルが僕の家であり、生活の全てだ。
深く空気を吸い込み、目を瞑ると、どこからか「おかえり」と聞こえた気がしたので、僕は軽快な足音で返事をした。