コンチネンタル ディバイド トレイル放浪記
【#5】河戸 “Sketch” 良佑

INTRODUCTION

カナダ国境からメキシコ国境まで、アメリカ中部の分水嶺に沿って5,000kmにも渡って続くコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)。「トリプル・クラウン」と呼ばれるアメリカの三大ロング・ディスタンス・トレイルのなかでも、もっとも歩く人が少なく、難易度の高いトレイルです。

そんなCDTを、同じくトリプル・クラウンのひとつであるパシフィック・クレスト・トレイルを2015年に踏破したスルーハイカーであり、イラストレーターとしても活動する”Sketch”こと河戸良佑が、2017年に歩きました。その遠大なハイキングの記録を長期連載で綴っていきます。

#5となる今回でSketchはモンタナを抜け、ワイオミング州へと足を踏み入れます。絶景に感嘆し、出会いと別れを繰り返し、足裏をボロボロにしながら、まだまだ彼の旅は続きます。

それは誰の足跡なのか

今朝の雨でぬかるんだトレイルに残る足跡を眺めながら、僕とシュウェップスはチップスをムシャムシャと食べていた。伸びた髭に絡みついたチップスのカスを、泥と化学調味料で汚れた手で払い落とすと、ふわりと足跡の上に舞い落ちた。

「この『アルトラ』の靴の足跡は、バックトラック(トレイルネーム)だよな」

「間違いない」と、シュウェップスは頷く。

「じゃあ、この横の足跡は誰のだ?」

「この小さい『アルトラ』の足跡はスティッチだな。」

スティッチはアメリカ人の女性ハイカーだ。小柄な体に似合わない強靭な足腰の持ち主で、以前に物凄い速さで追い抜かれたことがある。

「でも、スティッチは『ブルックス』の靴を履いなかった?」

「いや、彼女は数日前に新しい靴に換えたのさ。」

「なんでそんなこと、お前が知ってるんだよ。」

シュウェップスは「インスタグラムでチェックしたのさ」と言うと、体の向きをくるりと変えて歩き始めた。

スルーハイカーはトレイル上の足跡が、誰のものか分かることが多々ある。ハイカーは何気ない会話中にも意外なほど相手の靴をよく観察して、記憶しているのだ。その理由は、ロング・ディスタンス・ハイキングで最も重要なアイテムを靴だと考えているハイカーが多いからなのかもしれない。

ハイカーのなかには好みのシューズを、あらかじめ約500マイル(800km)毎に郵便局留めで発送し、その都度窓口で受け取る者もいる。僕も各メーカーの靴の耐久性が気になっていたこともあり、ハイカーの靴の側面のスレやソールの減り具合を無意識に見るようになっていた。そういう理由で、トレイル上に残された足跡のソールの形状、サイズ、歩幅で、それが誰のものなのか分かるようになっていた。

僕は2017年8月7日に長かったモンタナ州を歩き終え、ワイオミング州イエローストーン国立公園の湯気と硫黄の匂いが漂うトレイルを抜けて、ウインド・リバー・レンジに向かっていた。このセクションをCDTで最も美しいと呼ぶ人も多く、僕は急く気持ち抑えきれず、小雨が降るトレイルをいつもより早足で歩いていた。

トレイルが険しくなりはじめ、呼吸が乱れて苦しくなってきた。立ち止まってバックパックを地面に下ろすと、7日分の食料が入って重たくなったバックパックが泥の上にべちゃりと倒れた。昨日立ち寄ったドゥボイスという町から、次のランダーまでは約170マイル(272km)離れている。途中でトレイルをエスケイプして、パインディールという町に降りることもできるが、その場合10マイル(16km)東の登山口を目指し、さらにそこから町まで15マイル(24km)歩かなければならない。当然、また同じ道を歩いて戻らなくてはならない。僕はそれが億劫で、全行程の食料を担いで歩くことにした。

ウインド・リバー・レンジのセクションはCDTの本線を外れて、「ナップサック・コル・ルート」と「サーク・オブ・タワー・ルート」というふたつの代替ルートがあり、本線より距離が長く険しいがそのぶん景色が美しい。もちろん、僕はそのふたつのルートを歩きたかった。

呼吸を整え、ふと視線をあげると、そこには「BRIDGER WILDERNESS」と彫られた木製の看板があり、その下にはハイカーがナイフで削って書いた「←CDT N」という文字があった。ここから先がウインド・リバー・レンジ・セクションだ。

そのとき、ひと組の若い男性と女性のハイカーがこちらに歩み寄ってきた。

「あなた、スケッチでしょ?」

「え…そうですが、なぜ僕の名前を知っているんですか?」

「ちょっと前に、すれ違ったCDTハイカーのシュウェップスが、どれくらい前に俺と会ったか伝えてくれって言ったのよ。 だいたい30分前くらいかしら」

アイツめ。 僕は心の中で呟いた。 シュウェップスは俊足のハイカーだ。 30分ほど前ということは3マイルほど前方を歩いているのだろう。時刻はまだ午前11時を回ったところなので、このまま行くと夜には6マイルほど差が開いてしまう可能性がある。つまり、僕にこの距離を詰めて一緒に野営しようと、すれ違うハイカーを使って伝えているのである。

「ははは、ありがとう。君たちは北上しているCDTハイカーなのかい?」

「僕らはセクションハイカーさ。おっと、僕はハニー、妻はムーン。」

確かにどこか小綺麗なふたりだ。

「男性なのにハニーなんて、なんだか面白いね」

「そうなのよ!  私たちアパラチアン・トレイル(東海岸のロングトレイル)をハネムーンでセクションハイクしたの。それが由来で、あるハイカーにハニーとムーンって名付けられたのよ」

「なぜ僕がハニーで、彼女がムーンなのかは、うーん、分からないね」

ハニーは笑いながら言った。

「ところで、ウインズ(ウインド・リバー・レンジの略称)はどうだった?」

「最高よ!」

「最高さ!」

彼らは同時に言う。

「君たちはCDT本線を歩いた? それとも代替ルートを歩いたの?」

「サーク・オブ・タワーは素晴らしかった! だけど、ナップサック・コルはサンダーストームが接近して歩けなかった……」

確かにこの数日は天気が荒れていた。実際、数日前にサンダーストームに遭遇し、雷が落ちて煙が出ている木を近くで目撃し、その恐ろしさはこの体に、まだ強く刻まれている。僕はムーンとハニーに別れを告げ、冷たい雨のなかを再び歩き始めた。

テントを出ると前日の雨は上がり、木々の隙間から青空が覗いている。シュウェップスは既にタープを畳み、朝食のオートミールを食べていた。かなり距離が離れていたはずの僕らが合流できたのは、昨日、彼がハイクを早めに切り上げ、僕を待っていたからだ。

なぜ、シュウェップスが北上するハイカーに言伝をしたり、僕を待ってまで、合流を望んだのか疑問に思っていたのだが、話を聞くとトレイル難易度が高いナップサック・コルを誰かとアタックしたかったようだ。

「なあ、スケッチ。やっぱりナップサック・コルを歩く予定か?」

シュウェップスは、テントを撤収している僕の背中に向かって話しかける。

「そのつもりだけどね。なんで?」

「いや、その。俺はやっぱりCDT本線のルート歩こうと思ってるんだ。」

僕は手を止めて振り返り、彼を見る。

「何故?  僕は景色が良いルートの方が良いと思う」

「天気が荒れるとかなり危険らしいし、昨日会ったハイカー達は全員断念していたからさ。」

彼が言っていることは正しかった。それに、直前で諦めて引き返すより、分岐に差し掛かる前に決断した方がリスクは少ないだろう。

「オーケー。僕は元の計画通りを歩くよ。天気予報ではギリギリいけそうな気がするんだ。」

「そうか……」

シュウェップスは少し寂しそうな表情を浮かべ、クッカーをバックパックにしまう。同じ日数の食料が入っているはずなのに、彼のバックパックは僕のよりかなり小さい。

「じゃあ、俺はそろそろ出発するよ。」

バックパックを背負い、僕に握手を求める。

「じゃあ、またトレイルで会おう!」

彼の手を強く握る。

「すぐに会えるさ。」

僕の手を強く握り返すと、シュウェップスはすぐ脇のトレイルに戻り、歩き始めるとすぐに木々に隠れ見えなくなった。

もうシュウェップスと会うことはないかもしれないな、と僕は思う。おそらく彼も同じことを思ったはずだ。一度離れてしまうと、なかなか会うことはできない。スルーハイカー同士の別れはそんなものだ。けれどそんな一抹の寂しさも、すぐに現れる美しい景色と、新しい出会いが吹き飛ばしてしまうだろう。

ナップサック・コル

崖に突き出た岩の上に立ち、目を凝らして頂上へのルートを探す。しかし、どこにも誰かが歩いた痕跡は見当たらない。さらに上部を見ようと足を動かすと、バラバラと小さな岩が崩れて落ちた。本日は運良く晴天で視界も良く、慎重に足場を選び、滑落さえしなければ危険なさそうだ。それでも、短パンにトレイルランニングシューズで歩くようなトレイルでは決してないように思える。実際に、このセクションを歩く登山者はヘルメットにロープを持っている人も多い。浮いた岩を踏まないように、ひとつひとつの足場を確認しながら、ゆっくりと頂上を目指す。

標高3,745mのナップサック・コル頂上に辿り着いた時には、全身が疲弊しきっていた。重たいバックパックを岩の上に置くと、重力に解放されて体が少し浮いたように感じた。汗をぐっしょりと吸ったシャツが体を冷やすので、リペアテープで何度も補修してボロボロになっているダウンジャケットを羽織り、サングラスを外して目の前に広がる景色を眺める。

その時、くらりと目眩がしたのは、立ちくらみのせいだけではない。目の前の景色があまりにも美しかったからだ。

ナップサック・コルの足元から広がる絨毯の様な万年雪。その上を魚の背骨の形に似た赤い筋が走っている。険しい山々が、深々としたこの空間を守るように囲んでいる。ギザギザに切り立ったその尾根は、どこか中世の斧を連想させ、空を切り裂いていていた。流れる雲の影で次々に表情を変える景色に、僕は視線をそらすことができない。

「なんてこった。」

思わず言葉が口から漏る。この景色が今までアメリカをハイクして見てきた景色で、最も美しかったからだ。

四方から風の音が聞こえる。その時、誰かが呼んでいる声がしたが、その方角の崖に人なんているはずもない。しかし、よく見るとそこには数人のハイカーがいた。遠くてはっきりしないが、軽装であること、どことなく漂うだらしのない雰囲気から、彼らがCDTハイカーであると分かった。だが会話をするのにはあまりにも遠い。彼らはトレッキングポールでこちらを指して、なにかを伝えようとしていた。

最初は何のことか分からなかったが、互いに身振り手振りを繰り返しているうちに、僕がいる地点から下まで降りるルートの様子をたずねていることが分かった。なるほど、彼らのいる場所は、ほぼ垂直の切り立った崖で、今の装備で降りるのはかなり危険だ。一方、こちらは、相変わらずトレースがないものの、雪が積もっているため、滑り降りることがでそうだ。「こちらから降りるべきだ」とジェスチャーで伝えると、この距離からでも彼らが落胆する様子が見て取れた。彼らはうなだれながら、こちらに移動するために登ってきた急登を降り始める。

登ってきたときと同様に、たっぷりと時間を使って下る。頂上から見ていたときは分からなかったが、万年雪には深い溝がずっと続いていて、まるで海面の波が凍てついてしまったかのようで、その深さは膝丈ほどもある。美しい反面、非常に歩きにくい。雪が靴内に侵入し、足が冷えた。指先の感覚がなくなってきたので、体温を上げるために小走りで進むが、溝にはまり何度も転んだ。

なんとかして、雪の海に浮かぶ孤島のような岩にたどり着くと、靴と靴下を脱ぎ、両手で冷え切った足の指先を握って暖める。ふやけた足裏に違和感を感じたので見ると、足の皮に小さな穴がいくつも開いていた。痛みはなく、穴の奥にも厚い皮が見えるので問題はなさそうだが、不思議な見た目だ。

振り返りナップサック・コルを見上げる。太陽が頂上の少し上まで沈んでいて眩しい。遥か上の山頂には、先程、間違えたルートを登っていたCDTハイカー達が立っていた。僕が大きく手を振ると、彼らもこちらを見ていたようで、何かを言いながら手を振って応えてくれた。もちろん聞き取れなかったが、彼らはとても楽しそうに見えた。

僕は、早くも新しい出会いの予感がした。

【#6に続く】

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  • 河戸 良佑

    河戸 良佑

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    独学で絵を描いていたら、いつの間にかイラストレーターに。2015年にPacific Crest Trail、2017年にContinental Divid Trailをスルーハイク。アメリカで歩きながら絵を描いていたので、トレイルネームはスケッチ。 インスタグラムアカウント: Ryosuke Kawato(@ryosuke_iwashi)

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