カナダ国境からメキシコ国境まで、アメリカ中部の分水嶺に沿って5,000kmにも渡って続くコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)。「トリプル・クラウン」と呼ばれるアメリカの三大ロング・ディスタンス・トレイルのなかでも、もっとも難易度の高いトレイルです。
そんなCDTを、同じくトリプル・クラウンのひとつであるパシフィック・クレスト・トレイルを2015年に踏破したスルーハイカーであり、イラストレーターとしても活動する”Sketch”こと河戸良佑が、2017年に歩きました。その遠大なハイキングの記録を長期連載で綴っていきます。
#3となる今回、Sketchは夜中に謎の生物に遭遇し、絶壁を登り、自身の計画の甘さに直面します。いよいよ険しさを増してきた5ヶ月、5,000kmに及んだ彼の旅に、どうぞお付き合いください!
巨大な何か
2017年6月30日、ボブ・マーシャル自然保護区。
ズドン! 僕は眠りから瞬間的に覚醒し、目を大きく見開いた。
ドッ! ドッ! パキパキ……ザッザザ……。近くで「何か」が動いている!
心臓が大きく跳ねる。「何か」は枝を掻き分けながら、ゆっくり進んでいるようだ。体の芯に響くような大きな足音。かなり巨大な生物だ。
テントを設営せずに、地面にグランドシートとマットのみを敷いて寝る「カウボーイ・キャンプ」をしていた僕は硬直して、真っ黒な闇を見上げることしかできずにいた。
「熊かもしれない。」
背筋が凍る。音を立てないように恐る恐る寝袋から手を出し、枕元に置いている唐辛子入りの熊スプレーを掴んだ。
ズン! ズドン!
足音はますます大きくなってきていた。意を決して素早く起き上がりスプレーをかまえる。しかし、新月の森はただただ深い闇で目を凝らしても近くの木すら見えない。その時、枝が折れる音がかなり高い位置で鳴ってることに気がついた。
なんということだ! 熊なんかじゃない。もっと巨大な生物だ! 吸い込まれてしまいそうな闇は僕の恐怖を増幅させて、得体の知れない猛獣を想像させた。
そいつはすぐ近くまでやってくると、少しの間立ち止まり、ゆっくりと通り過ぎていった。
足音が次第に小さくなり、完全に聞こえなくなると、緊張の糸が切れた僕はふらふらと寝袋の上に倒れ込んだ。一体何だったのだろうか。心を落ち着けるために寝袋に潜り込み、体をギュッと丸める。
「今夜はもう寝れないかもしれない」と思ったが、徐々に心臓の鼓動が落ち着き、正常に戻った頃には、すでに眠りに落ちていた。
一夜明けて
翌朝、目を覚ますと辺りはすっかり明るくなっていた。どうやら、しっかりと眠っていたようだ。まったく自分の神経の図太さには呆れてしまう。昨夜大きな足音がした周辺を調べてみたが、足跡などは見当たらない。しかし、あれは夢ではなかった。確実に何か巨大な生物がいた。
寝ていた位置から10mほど歩いて木を見上げ、そこに食料袋が静かにぶら下がってるのを確認して胸を撫で下ろした。いま歩いているボブ・マーシャル自然保護区は熊が多く生息しているため、ハイカーたちはテント場から離れた木にロープを掛け、食料を3~4mの高さに吊るすのだ。
ロープを解くと食料の重みで腕が引っ張り上げられそうになったので、しっかりと握りなおしてゆっくり地面まで降下させる。6日分の食料が入ってパンパンに膨れた食料袋を両手で抱えて寝床まで戻り、袋をひっくり返して、寝袋の上に食料をぶちまけた。その中からアメリカで代表的な朝食用シリアルのポップ・タートを拾い上げて食べる。ポップ・タートはトランプのケースほどの袋に2枚の甘いジャム入りクッキーが入っていて、安価で種類が豊富かつ比較的どこでも販売されているため、ハイカー定番の食事になっている。
ブルーベリー味のポップ・タートを頬張りながら、散らばった食料の中からスニッカーズを2本とチョコバーのツインズを1本、グミのハリボーを1袋、そして更にブラウンシュガー味のポップ・タートをフリスビーの上に乗せる。これらは今日の大まかな行動食だ。残りを適当に食料袋に放り込んで閉じた。
食べ終わるとすぐにバックパックに寝袋をねじ込み、そして衣服が入った小さいスタッフサックと食料袋を押し込む。ダウンジャケットを脱いでバックパックのメッシュ部分に入れ、マットとグランドシートは一緒にバンジーコードで巻いて固定する。最後にスナックをサイドポケットとパンツのポケットに入れて、バックパックにフリスビーを取り付ける。
起きてから40分ほどしか経ってないので、体がまだ少し重い。怪我をしないようにゆっくりと歩き始めた。険しい山脈が列なるグレーシャー国立公園を抜けて、ボブ・マーシャル国立公園は標高が低くなだらかな地形だ。僕は少なくとも1日25マイル(40km)以上歩けると想定していた。
2日前に立ち寄ったイーストグレーシャーから139マイル(222km)離れた場所にベンチマークという牧場があり、そこへ事前に食料を送って受け取ることができるのだが、あまり気が進まなかった。何故なら保管料が25ドルと高額で、さらに一旦トレイルから離れて脇道を歩く必要があったからだ。僕はひと思いにその補給地を飛ばして一気に次の町のリンカーンまで、200マイル(320km)を歩いてしまうことにした。25マイル歩き続ける8日間のハイキングだ。今まで経験したことのない距離だが着実に歩けば問題はないと考えた。
思い通りに歩けないCDT
「またこれか……くそ!」
目の前の巨大な倒木がトレイルを完全に塞いでいた。背伸びして奥を覗くと倒木が延々と続いる。木に登り、幹から幹へ飛び移って移動しようと試みるが、枝が邪魔して進むとができない。諦めて藪を分け入って迂回する。しかし、森の中も倒木だらけで、迂回に迂回を重ねて自分がどこにいるのか分からなくなる有様だ。身体中に切り傷ができ、枝に足を取られて転倒した拍子にシューズの側面が破けた。GPSで現在位置を確かめながらできるだけ、本線から離れないように細かく方向を修正して歩く。
やっとの思いでトレイルに飛び出ると強い日光が降り注ぐ。僕は眩しさのあまり思わず目をつぶる。サングラスをかけて見渡すと周囲は焼け焦げた真っ黒な木々が何百本も立ち並び、その下に白いベアグラスが咲き乱れて甘い香りを漂わせている。
ベアグラスが体に触れると、ふわりと花粉が立ち上り、僕の両腕はどんどん白くなってなっていった。脳を焼くようなジリジリとした暑さを感じながら歩いていると、この世ではないどこかを彷徨っているような感覚に襲われる。ふわふわとした気分で歩いている僕を現実へ引き戻したのは、またもトレイルに覆いかぶさる巨大な倒木だった。
迂回を繰り返し森の中を歩き続けていたが、突然開けた場所に出た。右手には巨大な岩壁が奥まで聳え立っている。
ボブ・マーシャル自然保護区の名所である「チャイニーズ・ウォール」だ。
突如現れた荘厳な景色に目を奪われながら歩いていると、ふと自分が地図アプリ上ではトレイルから外れていることに気がついた。来た道を少しばかり引き返したが、分岐路のようなものは発見できない。しかし、地図アプリ上のトレイルは岸壁の中腹をトラバースするように伸びている。先ほどまで歩いていたトレイルはかなり遠回りしているように思えたので、地図を信じてガレ場に足を踏み入れる。
しかし、いくら歩いていもトレイルらしいものはなく、誰かが歩いたような跡もない。ついに何の形跡も発見できないまま岸壁の中腹まで登り切ってしまう。
岸壁の麓まで来るとなかなかの迫力で、仰け反らないと頂上まで見ることができない。僕はとりあえずマップに沿って歩くことにした。地面は瓦のような厚さの岩が重なっていて、歩くたびに揺れてガリガリと音を立てて揺れる。
クソ野郎!
誰のトレースも無いところを歩くのは困難であったが、これはこれで冒険心がくすぐられて楽しいものだ。しかし、次第に斜面がきつくなり、足場が無くなってくると、そうは言ってられなくなってきた。最終的には岩に張り付かないと歩けないような危険な道になっていった。恐る恐る下を見るとかなりの高さがある。
その時、信じられないものが目に飛び込んできた。先ほど歩くのを諦めたトレイルが岸壁の脇を舐めるように伸びていて、そこを2人のハイカーが楽しそうに歩いている。あちらが正しいトレイルだったのだ。
「ボブ・マーシャルのクソ野郎!」
そう叫ばずにはいられなかった。最終的にフリークライミングに近い状態になったが、なんとか岸壁を脱出し、トレイルに復帰した頃には疲れ果てて静かに岩に座り、チョコバーを食べるのが精一杯だった。
そこへ先ほどのハイカーがやって来た。遠くて誰かわからなかったが、知っているハイカーだった。釣り好きのCDTスルーハイカーの”ビア(ビール)”、そして初老のセクションハイカーの”アッガー”だ。これまでの経緯を説明すると、彼らは大きく笑って、今日は一緒に歩こうと提案してくれた。歩く気力をほとんど無くしていた僕は弱った犬のようにフラフラと彼らに付いて歩くことにした。
サインのないトレイル
「ボブ・マーシャルのクソ野郎!」
今回、そう叫んだのは僕ではなくビアだ。先頭を歩いていた彼は小さな分岐を見落として、全く違う方向へ歩いていしまっていたのだ。このセクションに入ってから、このような道迷いが多発していた。何よりも道にCDTのサインが全く見当たらない。分岐や間違えやすい箇所には必ず方向を示すサインがあったPCTとは全然違う。「気を抜いて歩くなよ!」とトレイルに言われてるような気がする。
その後も幾度となく倒木と戦い、道に迷い続けた僕らはクタクタに疲れ果てていた。まだ日没までかなりの時間があったが、山小屋の前の平らな土地を見つけると「このあと、こんなにいい場所があるかわからないよな」とお互いに言いわけし合って、そこにテントを張ることになった。
無計画さ故のミス
テントの設営し終えると、各々の食事に取り掛かる。基本的にお湯を沸かすだけなので、すぐに夕飯は完成した。ビアはマウンテンハウスという高級ブランドのビーフシチュー。アッガーは自分で事前に乾燥させて持って来たチリーソースのようなもの。そして僕はクノールのチーズパスタ。見た目も味も金額も圧倒的に僕の食事が劣っている。
食事を終えて、僕はあることに気がついた。今日は15マイル(24km)ほどしか歩けてないのだ。つまり、もし今から25マイル毎日歩き続けても、半日分ほどの食事が足りない。そして、今日のようなトレイルが続くならば確実に1日に25マイル歩き続けられる自信もない。
「おい! スケッチどうした?」
地面に並べた食料を見て呆然としている僕を心配してアッガーが声をかけた。
「いや、食料がね……足りないかも。 あ、でも、明日の食事を半分にしたら足りるのかな。多分……ははは。」
自分の無計画さがが恥ずかしく、曖昧な返事をしてしまう。するとアッガーは食料袋からオートミールを4袋取り出しこちらに投げてよこした。
「多めに持って来てしまったからやるよ。」
そのやり取りを見ていたビアも大きなカルパスをこちらに投げた。
「これ美味いから食ってみろよ。」
僕はそれらを拾い上げ、ありがとう、ありがとう、と言い続けることしかできなかった。
こんな有様じゃCDTをスルーハイクするなんて不可能だ。今後はもっと堅実に歩かなければならない、そう己に言い聞かせた。
【#3に続く】