北海道東トレイルは、2024年に開通したばかりの日本で一番新しいロングトレイル。道東の釧路湿原、阿寒摩周、知床の3つの国立公園と14の市町村をつなぎ、広大な湿原や深い森、どこまでも続く畑作地帯や酪農地帯、日本最大のカルデラなどを超えて410kmに渡って続くその道を、この夏、ロングディスタンスハイカー清田勝さんが歩きました。
これまでも「みちのく潮風トレイル」や「あまとみトレイル〜信越トレイル」、太平洋〜日本海縦断、「九州自然歩道宮崎セクション」など、国内のロングトレイルを歩いた記録をこの山と道JOURNALに多く寄稿してくれている清田さん。今回も相棒の写真家、田安仁さんと釧路から北上して最果ての地、知床羅臼を目指します。
ともあれ、2025年の夏は記録的な猛暑が北海道をも直撃! アブにまみれ、クマに怯えながらも、数多くの出会いと別れを繰り返しつつ灼熱のロードを歩き続けるふたりの旅にどうぞお付き合いを。
日本を旅する
日本を旅するならどこを旅したいだろう?
そう考えると候補地の上位に上がってくるのが「北海道」ではないだろうか。「いつか北海道を旅してみたい!」そう思う人は少なくないはずだ。大阪に住む僕もまた例に漏れず、北海道への憧れは常に心のどこかに持ち続けている。
今からちょうど12年前の2013年夏、僕は自転車でこの地を旅していた。当時、旅を始めたばかりの僕は、10万円で購入したジャイアントの『グレートジャーニー』に、ホームセンターや100円ショップで買い揃えたものを詰め込み旅をしていた。当時の僕は24歳。あれから干支が一回りし、12年という月日の中で僕は変わっているのだろうか? それとも、まだあの頃のままなのだろうか?

12年前の夏。初めての一人旅。
今回歩いた『北海道東トレイル』のルートは、太平洋に面する釧路から道東を縦断してオホーツク海に抜け、知床峠を越えて羅臼まで歩く。その中で12年前に自転車で訪れた場所も通ることになる。この道を旅することは、歩くことでこれまで知らなかった北海道の姿を見つめ、あの頃の自分に再会しに行く旅となった。
北海道東トレイルとは
このトレイルを知ったのは、今年の2月に開催されたトレイルブレイズ・ハイキング研究所(通称「トレ研」)主催の『つなぐ、東海自然歩道、もう一歩 in 大阪』だった。東海自然歩道の調査や地図データを作成するプロジェクトの報告会として位置付けられたイベントで、昨年、僕も調査員としてこのプロジェクトに関わっていた為、イベント当日登壇することとなっていた。
その会場には国内のトレイルブースが用意され、会場は賑わっていた。『みちのく潮風トレイル』はもちろん、『あまとみトレイル』『信越トレイル』『ふくしま浜街道トレイル』他、多数のここ数年で注目を集めるロングトレイルの情報が集まっていた。それぞれのブースにはチラシやパンフレット、マップブックなど、そのトレイルを歩くための情報と、そのトレイルに精通したハイカーが各ブースで情報提供をしていた。
そんな中、『北海道東トレイル』のブースには1台のモニターだけが置かれていただけだったが、僕はそのモニターに映る世界に引き込まれていった。10分ほどのその動画は、僕をこのトレイルに誘うには十分すぎるものだった。
「まさる! ちょっと話があるんだけど」
映像を見終わるタイミングを見計らっていたかのようなタイミングだった。トレ研の長谷川晋さんが声をかけてきた。
「北海道東トレイル歩いてもらうかもよ!」
今さっき釘付けになっていた世界の余韻を味わっている最中、用意されていたかのように話が始まった。

北海道東トレイル:釧路から羅臼をつなぐメインルートの他、オンネトーから弟子屈までをつなぐ阿寒ルートがある。
ここで、少し北海道東トレイルについて紹介しておきたい。
北海道東トレイルとは、北海道の東側に位置する、知床、阿寒摩周、釧路湿原の3つの国立公園と地域を結ぶ、410kmのロングトレイル。環境省をはじめ、関係自治体、民間団体、地域住民の協働により、2024年10月に開通したばかりの新しいトレイルだ。
釧路市から羅臼町までを南北に縦断するルートとなっており、自然と地域の魅力を深く体感できる歩く旅の道となることを目指して、北海道の地に産声をあげた。
知床、阿寒摩周、釧路と聞くと雄大な景色を一番初めに思い浮かべてしまいがちだが、ここにはたくさんの生き物が住んでいる。ヒグマ、キタキツネ、エゾシカはもちろん、クマゲラ、タンチョウ、オジロワシ、オオワシ、シマフクロウ、そして、知床の海には季節によってクジラやシャチも姿を見せる。
そんな野生生物が生きる世界にハイカーが歩けるトレイルが開通し、そこを歩くタイミングがすぐそこにあるということが僕の心を弾ませた。
その話を聞いた僕はひとりの男を探した。彼もこのイベント会場に来ていることは知っていた。その男とは、2年前に九州自然歩道の宮崎セクションを共に歩いたカメラマンの田安仁君だ。
全線開通したばかりのトレイルとなると、国内のハイカーにはまだ情報が届いていない可能性が高い。僕ができることは歩くことぐらいだ。どうせ歩くならハイカーに届くような旅がしたい。そうなるとカメラマンが必要だ。
僕が知っている中で、長い距離を歩ける人はたくさんいる。そして、センスのいい旅の写真を撮れる人も知っている。だが、長い距離を歩いて旅の写真を撮れる人は彼以外に知らない。
彼の撮る写真は、旅する人や旅に登場する人の自然な表情を映し出す。彼の生まれ持った素質なのか、それともそういった撮影スキルを身につけたのかはわからないが、僕は彼のそんな写真が好きだ。

2023年に歩いた九州自然歩道宮崎セクションは、『HIKE MIYAZAKI』として旅行記をJOURNALに掲載。
そして、何より前回の宮崎の旅が本当に楽しかった。長距離はひとりで歩くことが多い僕だが、彼と歩いた日々はまた一緒にどこか旅したいなと思わせてくれる時間だった。彼もそう思ってくれていたらいいなと思う。
「田安くーん!」
「どうしました?まさるさん?」
「今年の夏、一緒に北海道歩かへん?」
「まじっすか! いいっすね! 行きましょ!」
こうして、僕たちの旅が決まった。
これは、大阪もまだまだ寒い2月の話。7月に旅立つその日まで、僕の心にはいつもどこかに北海道の自然があったような気がする。
自分の暮らす場所ではないどこか
2025年の7月16日、旅が始まった。
辺り一面霧がかる、新釧路川沿いの一直線を歩いていた。数10m先の景色もはっきりと見渡すことができない。そういえば、去年の今頃も同じような景色を歩いていたことを思い出した。昨年旅をしたのはアイスランド。内陸のエリアは小雨が降り続ける旅だった。去年も今年も、なんだか涼しいところばかり旅をしている。

新釧路川沿いを霧の中歩く。
だが、今回はひとりではない。隣を歩く田安君は、旅の道具に撮影機材、そして熊対策にベアキャニスターも持っている。見るからに重そうなその荷物は僕のバックパックの2倍以上のウェイトがありそうだった。
「今回撮影機材のバック新調してきたんですよ!」
「前よりでかくなってない?」
「そうなんです。今回北海道だし望遠レンズもあったほうがいいかなって思って、バック大きくしたんです!」
「まじで! 重くないの?」
「ん〜、今のところ大丈夫です!」
彼は元気に笑っていた。

20kgはありそうな田安君のパッキング
そして、今日は友人も一緒に歩いている。JMT(ジョン・ミューア・トレイル)ハイカーのリエさんとPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)ハイカーのナオキ。リエさんは倶知安から、ナオキは札幌から。

左:ナオキ 中:リエさん
今回、この旅が決まってからというもの、北海道の友人と連絡をとる際、「今年の夏、道東歩きに行くから途中合流してくれていいよ!!」と冗談っぽく伝えていた。
北海道は広い。そんなことは誰もが知っている。札幌や函館に住んでいる人ですら道東に行ったことがないというのはよく聞く話だ。なんせ、札幌から釧路まで車で5〜6時間はかかる。距離にして400kmぐらいだろう。僕が住む大阪から北アルプスの登山口まで移動できそうな距離だ。
北海道にはたくさんの友人がいるが、そのほとんどが札幌やニセコ周辺に住んでいる。そんな友達に「道東行くから一緒に遊ぼうぜ!」というのは、あまりにも酷な話だ。大阪に住む僕に「今度アルプス行くから2〜3日一緒に遊ぼうぜ!」と言われて「わかった!いくわ!」と僕は即答できるだろうか。「いやいや都道府県全然ちゃうやん!」とツッコミを入れてしまいそうだ。
だが、彼らは来てくれてしまった。99%の大喜びと1%の小さな罪悪感を潜ませて、僕は彼らとの時間を思う存分堪能しようと心に決めた。
「海に霧って書いて何て読むんやっけ?」
「ジリでしょ! 昨日行った居酒屋にジリレモンサワーってあったじゃん!」
リエさんが即答する。
「そやそや! ジリや! ジリ!」

新釧路川沿いを北上する
海霧(ウミギリ)のことを道東の方言で「ジリ」と呼ぶ。そのことを僕たちは出発前夜の居酒屋で知った。
海霧という現象は文字通り、海で発生する霧のことである。冷たい海や陸地の上に暖かく湿った空気が流れ込むことで、空気が冷やされ空気中に含むことができなくなった水蒸気が小さな水の粒になり霧が発生する。その霧が釧路一帯に流れ込み、年間平均100日間も釧路は霧に覆われることから「霧の街」とも呼ばれている。
何も考えずに視界の冴えない一本道をただ歩くよりも、こうした自然の仕組みを知りながら歩くことが、自分と自然との接点を広げてくれる。またひとつ知らない北海道を知ることができた。

エゾシカはどこにでもいる。
「あれ何かな?」
「なんか動物の死骸っぽくないですか?」
茶色い何かが遠目に見える。
「意外と枯葉やったりするんちゃう?」
「風で飛んできたゴミかもですね」
そんなことを言いながら、茶色い物体に近づく。
「今、動きませんでした?」
「いや動いてないでしょ」
ようやくその物体の全貌が認識できる距離まで来た。よくよく目を凝らして見ると、1匹のキツネだということがわかった。コンクリートの舗装路のど真ん中でぐったりと倒れているように見える。どこか怪我でもしたのだろうか。助けてあげたい気持ちもあるが、エキノコックスに感染する可能性もある。

キツネとの遭遇。
「キツネってこんなとこで寝たりしないですよね」
「さすがに舗装路では寝ないでしょ」
かなりの距離まで近づいても、キツネは顔をこちらに向けるぐらいで立ち上がろうとしない。怪我をしたのだろう。「かわいそうに」と思い、腰を下ろし観察する。すると、むくっと立ち上がった。

靴下を履いたみたいなかわいい足元。
キツネはしばらくすると、慌てた様子も見せず舗装路をトコトコと歩いていった。どうやら、本当に寝ていただけのようだった。本州ではなかなか遭遇することのない光景に、北海道という場所の特殊さ、そして旅の始まりを感じた。
旅をするとはどういうことなのだろうか。遠く離れた場所に行くことなのか、それとも長い時間をかけることなのか、その答えは未だにわからないが、自分の暮らす場所ではないどこかにそれはあるような気がする。
こうして道路で昼寝をするキツネに出会ったこと。「ジリ」と呼ばれる霧に包まれながら歩くこと。それは自分が暮らす場所ではないどこかにやってきたことを教えてくれるには十分だった。

うっすら霧が晴れ、ようやく釧路川を一望できた。
道東の匂い
翌日もまた釧路湿原のエリアを歩く。釧路湿原は日本最大の湿原。僕たちハイカーのスピードでは1日で通り抜けることはできない。
リエさんとナオキは朝一番の電車で釧路へ帰ってしまった。そう、この地域には釧網本線という鉄道が走っている。北海道東トレイルは太平洋の釧路からオホーツク海の網走までをつなぐこの鉄道のそばを通っている。
アクセスが難しそうなこのトレイルは、意外にも電車でどこにでも行けてしまう。しかも、関西からのアクセスも飛行機に2時間ほど乗れば釧路空港まで来れてしまう。釧路空港の他にも、女満別空港、中標津空港もあり、東京や大阪といった大都市からのアクセスも問題はない。道東は意外と近い場所にある。

リエさんとナオキを見送る釧網本線細岡駅。
ふたりを見送った後も、釧路一帯には霧がかかっていた。
「タンチョウって釧路にしかいないんですかね?」
「どうなんやろな? 1年中この辺にはいるらしいけどね」
「野生のタンチョウ見てみたいですね!」
海霧の中歩いた昨日。もしかしたら、海霧のすぐ向こうにはタンチョウがいたのかもしれない。人が行動できる範囲で野生動物に出会うことは、そんなに簡単なことではないのかもしれない。彼らはこの大地を自由に移動する。歩き旅ですら、僕たち人間が立ち入れる場所は限られている。

達古武湖
シャツにじわりとかいた汗が体を冷まそうとしている。日中の湿気を帯びたぬるい空気は夏を感じるには十分だった。
「意外と暑いね」
「ですね。でも、これぐらいがちょうどいいですよ。歩き終わってビールでも飲んだら最高でしょ!」
僕たちはそんな会話をしながらその日の行程の約半分を過ぎようとしていた。国道391号線はたまに車が通る。北海道東トレイルは舗装路率が高く、7割以上が舗装路歩きと言われているが、国内の他のトレイルが通る道路よりも圧倒的に交通量が少ない。車を気にしすぎず歩けるのもこのトレイルの特徴かもしれない。

標茶町に入る。
そんな舗装路から砂利が敷き詰められた林道へ入り塘路駅方面へ向かう。林道となれば車は全くと言って入ってこない。むしろ林道脇の茂みからヒグマが出てきそうな雰囲気すら感じる。バックパックのサイドポケットに携行しているベアスプレーに意識を持ちながら少しの緊張感を持って歩いていた。そんな矢先、後方から車のクラクションが鳴った。道をゆずり追い越していく車になんとなく目をやると、
「Hooooo!!!」
車内にはリエさんとナオキが乗っていた。
「お前ら! ビール飲みたいだろ!」
「まじでーーー!!!」
彼らは、釧路に帰って車を拾ってから僕たちにトレイルマジックを仕掛けに帰ってきてくれたのだ。こんなに嬉しことはない。アメリカのトレイルを歩いた経験があるハイカーはこんなことをサラッとやってくれてしまう。僕はいつももらってばかりだ。いつかは彼らのように動いてみたいと思う。

トレイルマジック!
今回の旅は賑やかになりそうだ。なにやら、2日後に出発したハイカーが僕たちを追いかけてきているらしい。他にも数人連絡をくれている友達がいる。この先にも、まだまだ出会いが待っていると思う浮き足立つ気持ちは、夏休みに入ったばかりの学生時代の感覚と似ている。

いつの間にか霧も晴れ、澄み渡る青空の下に僕たちはいた。雨上がり独特の匂いが周囲に立ち込める。匂いは思い出を定着させる機能も果たしているのだと思う。この匂いを嗅ぐ時、僕は今日のことを思い出すのだろう。
この匂いは、道東の旅の匂いだ。

夏のど真ん中
パンッ! パンッ! パチン!
パシッ! パンパン!
パン! パン! パン! パシン!
「あぁ〜〜、もうたまらん!」
「やばいっすね! あ〜もう! 痛っ! またやられた!」
こんなに辛いハイキングは人生で初めてかもしれない。僕たちの周りには常に数匹のアブが飛んでいる。正式名称はウシアブ。体長2cmほどの奴らは肌が露出している部分に飛びつき幾度となく吸血を挑んでくる。そして、時たま現れるアカウシアブはスズメバチと瓜二つの見た目をしている。僕たちは上下レインウェアを着て防御に徹するか、ひたすら叩き落す攻撃に専念するかの2択を強いられていた。

アブと共にロードを歩く
「今日めっちゃ多くない?」
「まじでやばいです。既に何発かやられました」
田安君の足は刺し跡が結構ひどくなっている。
「暑いけど、もうレイン履いちゃうわ!」
「僕もそうします!」
僕たちは下半身を防御に全振りし、上半身での攻防戦に集中することにした。レインを履いた下半身は一瞬で蒸れて暑くなるが、アブの攻撃から身を守れるならまだマシだ。
そんな時、北海道東トレイルの運営事務局の人からのアドバイスが頭をよぎった。
「アブがすごいので長袖長ズボンで歩いたほうがいいですよ」
その言葉を聞いても、半袖短パンで歩くというイメージしか持っていなかった。僕たちが今までどれだけの虫と戦ってきたかを彼らは知らないのだろう。そんなことを思っていたあの頃の自分はとても愚かだ。

水辺でアイシング。
それにしてもここ数日暑すぎる。まるで真夏に関西の低山を歩いているようだ。汗でシャツはぐっしょり濡れ、額から流れる汗が目に入る。気温は35℃前後、ここ数年言われているように異常気象なのだろうか。
そんな中、歩く道道(北海道の都道府県道は「道道」と呼ばれる)243号線の雰囲気はヒグマが現れてもおかしくなさそうな雰囲気を醸し出し、車もたまにしか通らない。口では笛を吹き、両手でアブを叩き落としながら歩く、そんなストレス以外のものが何も見当たらないような時間だった。
すると、道の先でバックパックを背負った人がこちらに向かって手を振っている。こんなところに登山道はない。となるとこの北海道東トレイルを歩いているハイカーなのだろうか。

誰もいない舗装路に現れたひとりのハイカー
「こんにちはー!」
「笛の音がしたから何かと思って止まってたんですよ!」
彼は明らかにハイカーだった。
「どこからどこまで歩いてるんですか?」
「釧路から弟子屈ぐらいまで歩く予定です」
どうやら北海道東トレイルを歩いているみたいだ。

彼の名前はジョウイチさん。日本生まれ日本育ちのオーストラリアと日本のハーフということがわかった。仕事の休みを利用して北海道東トレイルのセクションを歩いているらしい。
「せっかくなんで一緒に歩きません?」
「いいですか! 歩きましょ!」
まさか、こんなところでハイカーと出会うとは思ってもいなかった。彼は外国人向けにハイキングのガイドをする仕事をしているらしい。どうやってこの道を知ったのか、なぜハイキングのガイドをしているのか、いつの間にか彼が今に至るまでの話、人生観や人付き合い、そんな話をしていた。
こうしてトレイルを歩いているハイカー同士が偶然知り合い、心を通わせていく出会いはアメリカを旅していた頃と同じ感覚だった。

牧草地帯を横目に一緒に歩く
「ハイキングって最高だよね!」
彼はよくそんな言葉を発していた。外国人向けにガイドをしている彼だが、日本の人にもっと歩いてもらいたいと言っている。
近年、日本はインバウンドの需要が高まり、何から何まで外国人向けのサービスが増えている。そんな中、日本と海外両方のアイデンティティを持つ彼は、国と国を跨ぐ架け橋のような役割を担おうとしているのかもしれない。
歩く道は多くの人に開かれるべきだとは僕も思う。だが、その地に住む人やその国に暮らす人が誇りに思うものにならなくては、開かれるものも開かれないだろう。

「ここから自分のペースで歩くよ!」
「オッケー! また後で会うだろうね!」
そんな会話をし、ジョウイチさんと僕たちの距離はごく自然な流れで離れていった。とはいえ、ここは北海道。直線の道路が多いこともあって、振り返れば遠くでカメラのレンズを覗き込み、シャッターを切る彼の姿が見える。道路脇に咲く花や、花に集まる虫を撮っているのだろうか。他のハイカーに依存しない楽しみ方をする彼を見て、ハイカーってやっぱりいいなと思った。
今日の目的地の標茶市街まではあと10kmもない。2時間も歩けば着くだろう。頭ではわかっている距離感だが、照りつける太陽の暑さが1日のピークに達し始めた頃、その距離は永遠に感じる。
「今日めちゃくちゃ暑くない?」
「やばいっすね。汗止まらないです」
田安君は完全に暑さでやられて声に張りがない。

太陽を遮る影がなくなる農地の脇を歩く
あまりの暑さに休憩が増える。道路脇に木陰を見つけては休憩をする。標茶まではもう5kmぐらいだろうか。走れば30分ほどでついてしまう距離だ。たった5kmがいつまでたっても遠く感じてしまう。そして、休憩中もアブは休むことなく僕たちを攻めてくる。今日1日で一体何匹はたき落としてきたのだろう。
「暑いね! アブやばいね!」
ジョウイチさんが追いついてきた。
「ほんと暑すぎるよ」
「自販機どっかにないですかね」
田安君が干からびかけている。いや、干からびている。
「標茶まで行けばコンビニあるからビール飲も!」
「コンビニでビール」僕たちが歩く原動力はそれしかなかった。あと1時間歩けばビールが飲める。頭の中はそのことしか考えられない。コンビニでビールを飲んでいる未来の自分を想像しながら、ジリジリと照りつける太陽の下を惨めにまた歩き始めた。

ウシたちもアブにたかられている。
道道243号線は国道391号線にぶつかる。後はこの道をひたすら北上していけば標茶のコンビニに着く。暑さのピークは過ぎたものの、体感35℃はありそうだ。緩やかなカーブを曲がる度に、「コンビニはまだか。コンビニはまだか」と遠くまで続く道の先を凝視する。そんなことを3〜4度繰り返し、ようやく町の中心らしきものが見えてきた。
「もうちょっと。もうちょっと」
「あれセブンイレブンの看板じゃない!?」
「ほんまやほんまや!」
目的地が見えた途端、さっきまで何かを引きずりながら歩いていたような足取りも、いつの間にか軽やかに前進し始める。人の心と体は都合よく作られている。

どこにでもあるコンビニが輝いて見えた。
やっとの思いで辿り着いたコンビニ。店内に入る。涼しい。僕たちが求めていたものすべてがこの場所に集約されているようだった。
「ビール奢らせてよ!」
ジョウイチさんがそう言ってくれる。
「いやいや、自分で買いますよ!」
「一緒に歩けて楽しかったから払わせてよ!」
僕たちはお言葉に甘えることにした。
ロング缶を手にした3人からは笑顔が溢れ、勢いよくビールのタブを開けると「プシュッ」と泡がはじけ出た。
「カンパーイ!!!」
炎天下の夏空の下、喉を鳴らすようにビールを流し込む。そんな僕たちは間違いなく夏のど真ん中にいた。

PCT帰りのハイカー
「お疲れ様でーす!」
声をする方に目をやると、そこにはクーラーボックスを片手に持った女性が立っていた。
「この辺にいてると思ったんで探しに来ました!」
クーラーボックスには手書きで”TRAIL MAGIC”と書かれている。

エリサちゃん登場。
僕はこの女性と会ったことがある。2024年2月に倶知安のコーヒーショップ『SPROUT』でイベントをした時に、参加してくれたハイカーだった。とはいえ、人数も多かったこともありゆっくりと話すことができていなかった。当時、彼女は「PCT行ってきます!」と言って会場を後にしていた。その後、あの長い道のりを旅してロングトレイルのカルチャーに触れたのだろう。とてもいい顔をしている。

スイカとビールとログノート。
「マジで! ありがとーー!」
「ありがとうございます!」
今さっき多和平のレストハウスでカレーと生ビール平らげた後だったが、なんの躊躇もなくクーラボックスを開け、喜んでいる僕たちがいた。「全部飲んでもらって大丈夫です!」彼女は気持ちよく僕たちにそう伝えてくれた。
人が会いに来てくれることは、なぜこんなにも心が弾むのだろう。自分が誰かに気にしてもらえているという事実が目に見えてわかるからなのだろうか。心も弾めば自然と会話も弾む。何を話したかはあまり覚えていないが、クーラーボックスに入った6缶パックのビールがあっという間に底をついてしまった。
まだまだ暑い夕暮れ前に出会ったはずが、気がつけば気温も下がり涼しい風が吹き始めてきた。

あっという間にお別れの時間。

多和平キャンプ場。
翌日、僕たちは弟子屈町まで歩き、撮影機材の充電や洗濯をするため、宿を取ることに決めていた。いくつかある宿の中で、数日前に一軒のゲストハウスからSNSのフォローが入っていた。
「宿どこにしますかね?」
「なんかフォローしてくれてる宿があるんよ。空いてたらここにする?」
「わかりました。ちょっと電話してみます!」
田安君は撮影以外にもマネージャー業も率先してやってくれる。というより、僕が何かをやろうとしたら先にやってくれている。なぜここまで動けてしまうのかいつも不思議に思う。
「空いてるみたいですよ!」
「じゃぁそこにしよっか!」
「なんか、まさるさんのポッドキャストも聴いてくれてるみたいです」
「まじで! そんなこともあるねんな!」
宿の名前は「HOSTEL MISATO」ここで宿泊することが、この後の旅路での出会いを増幅させるトリガーとなった。

900草原展望台へ向かう。
旅のピースを集める
900草原展望台を通り弟子屈町へ向かう。今日の移動距離は24km。この調子だと昼過ぎには到着するだろう。「弟子屈で居酒屋あったら行く?」「とりあえずセイコーマートでビール飲む?」僕たちは初めての宿泊に浮き足立っていた。
弟子屈町へ到着し、吸い寄せられるように僕たちはセイコーマートへ向かった。

セイコーマート到着。
「晩飯どうしましょ?」
「どっか食べに行くのもありやけど、とりあえず宿行ってから決めるか!」
「ですね。宿の人がいい店知ってるかもですしね」
セイコーマートを出て10分ほど歩くと、「民宿美里」と書かれた雰囲気のある綺麗な宿が見えた。玄関の戸を開け
「さっき予約したものです!」
「あぁ〜! 来た来た! インスタ見てましたよ!」
受付のカオリさんがそう言って迎え入れてくれた。

出会う前に僕たちのことを知ってくれていることほど嬉しいことはない。建物内の一階には共有スペースにテーブルが並べられ、広々としたキッチンがある。いい意味できれいすぎないアットホームな空気感にとても良い印象をもった。簡単に自己紹介をすると、ここまでの道中の話を興味深く聞いてくれる。ここの宿にしてよかったなと心の底からそう感じた。
「今日、食事どうされます?」
「どこかいいお店ありませんかね?」
「今日たまたま弟子屈の人たちが集まってここで食事するんだけど、もしよかったら一緒にどうかな?」
そんなことを言われて断るハイカーはどこにもいない。
「是非、ご一緒させてください!」
夕食にありつけることが決まった僕たちは、シャワーを浴び、昨晩の雨で濡れたテントを乾かす。

敷地内のサウナスペースでドライアウト。
「タニーさん、この辺居てるんですかね?」
「なんかそうっぽいよな」
タニーとは、釧路を歩き始めた2日後に僕たちを追いかけて来ているハイカーのことだ。アメリカ3大トレイルを歩いた経験があり熊本に住む彼は、この夏、大阪に引っ越すと言っていた。どうせ引越しするなら、地元の熊本からお世話になった人を訪ねながら大阪まで歩いて旅をする。そんなロングハイカーらしい移動をしていた。
当初の予定では、最終目的地の大阪で僕に会ってその旅を終えることになっているようだったが、その時、僕は大阪にいない。「まさるさんに会わないと旅が終わらないので、北海道まで行きます!」といって追いかけてきてしまっていた。そんな彼のSNSで動向をチェックしていると、今日ぐらいに弟子屈に着いていそうな動きをしていた。
「タニーのことやから、たぶん宿取らんとどっかで寝そうやね」
「タニーさん宿で寝なさそうですもんね」
「追いかけてるのに追い越すかもな」
「一応、連絡入れます?」
どこにいるかわからない彼にこちらから場所を聞いていいものか、もしかしたら彼は連絡を取らずに僕たちを捕まえたいのかもしれない。そんなことも考えたが、一緒の方が楽しくなるだろうと思い、僕から連絡を入れた。
「タニー! 今どこにいる?」
「今、弟子屈にいてます!」
「そかそか。今日宿で泊まるからよかったら一緒にどう?」
「わかりました! 行きます!」
連絡をして間もなく彼は宿にやってきた。この暑さの中、熊本から大阪まで歩いてきた彼の足は僕たちよりもワントーン暗く、こんがりと焼かれていた。

熊本から追いかけてきたタニー合流。
タニーも合流し地元の人たちも集まり、夕食の時間となった。そこには、北海道東トレイルの運営をしている荻野君もやってきた。彼とは今回のトレイルを歩く中で連絡を取り合っていたので、話したいことが山ほどあった。
「僕から連絡入れようかなとも思ってたんですけど、旅を邪魔するかなと思って連絡しなかったんです」
「そんなこと思ってくれてたんやね。ここに泊まって正解やったわ!」
僕たちはこの宿に泊まるべくして泊まったんだなと思えてならなかった。集まった地元の人たちも様々なバックボーンがあり弟子屈に移住してきた人ばかりで、とても心地いい人間関係がそこにはあった。この宿は地域のコミュニティをつなぐ役割も担っているようだった。

初めましての人たちとの食事は会話が止まらない。
歩き出してまだ5日。1日目と2日目にリエさんとナオキ、3日目にジョウイチさん、4日目にエリサちゃん、5日目弟子屈でも新しい出会いがあり、そしてタニーが追いついてきた。毎日誰かとの再会や出会いがある。この歩き旅を終えた時、どれだけの人に出会えているのだろうか。そんな想像をするだけで心は弾んでしまう。
もしも、旅に完成の形があるとするなら、そのピースが徐々に集まってきているような気がした。

北海道東トレイル事務局長の荻野君。
【後編に続く】