山と道

【暑くて臭くて底抜けに笑うアパラチアン・トレイル】

暑くて臭くて
底抜けに笑う
アパラチアン・トレイル#3

アメリカ東部のアパラチアン山脈沿いに3500kmに渡って伸びるアパラチアン・トレイル(AT)は、「トリプルクラウン」と呼ばれるアメリカ3大ロングトレイルのひとつにして最も長い歴史を持ち、また最も多くの人が歩く、まさに「ロングトレイルの中のロングトレイル」とも呼べる存在です。

2019年、イラストレーターにしてロングディスタンスハイカーのトレイルネーム”Sketch”こと河戸良佑さんが、彼にとって「トリプルクラウン」最後の1本となるATに挑みました。この連載では、5ヵ月に及んだその長大な旅を通じて、彼の覗いたアメリカのロングトレイルのリアルを活写していきます。

前回まではATハイカーとのペースやフィーリングの違いに悩んでいたSketchですが、歩き始めてひと月がたち、徐々にATでのペースが掴めてきた様子。ハイカーたちと安酒を酌み交わすうちに、彼にとってのロングトレイルやスルーハイクの真実を発見します。

これまでの連載一覧

文/イラスト/写真:河戸良佑

ロングトレイルはすごろくのようだ

アパラチアン・トレイルはまるですごろくのようだ。僕は時にそう思う。

アメリカで最も比較的人口密度の高い東海岸に位置するこのトレイルは、ゆえに街との距離が近く、頻繁に補給や休息、もしくはレストランに行くためだけにでも下山することができる。ハイカーたちは長くても6日以内にどこかの街へ降りるが、時にはそれが1日おきだったりもする。

街で補給と休息を終えたハイカー達は再びダイスを振ってトレイルに戻るが、当然良いマス目が出るときもあれば、悪いマス目なときもある。「一回休め」が歩かない日(=ゼロ・デイ)だとしたら、まったくもってすごろくのようではないか。

アパラチアン・トレイルを歩き始めて3週間が過ぎた2019年5月1日、僕はテネシー州ガットリンバーグの街で1泊したのちに、トレイルへ戻るために街外れの路肩にひとり寂しく立ち、親指を空へ突き立ててヒッチハイクをしていた。僕にとってこの街は「悪いマス目」だった。

アメリカをハイキングしていると、巨大なレジャーランドのような街に出くわすことがある。ガットリンバーグもそのひとつだった。このタイプの街が嫌いなのにはいくつか理由がある。

ひとつは、街の中心に娯楽施設が集中するため、ポストオフィスや大型のスーパーマーケットなどのハイカーが必要とする施設が郊外に分散されていること。もうひとつは往々にしてホテルの相場が高く、ましてや1泊15ドルのようなバンクルーム(相部屋)は存在しないこと。きわめつけは綺麗な身なりの観光客が溢れる街は、僕らのような汚らしい「ハイカートラッシュ」にフレンドリーだとは言いがたく、居心地が悪いこと。

  • ガットリンバーグの外れに位置するアウトドアショップ。ポストオフィスなども同様に街外れにある。

  • ガットリンバーグでひとりで広い部屋に寂しく宿泊した。

こういう時は、ハイカー同士が集まって、シングルルームをシェアして宿代を安くし、そして夜はピザとビールで馬鹿騒ぎをすることが楽しみなのだが、僕が街に到着するタイミングが悪かったことと、まだトレイルを歩き始めてから連絡先を交換するような仲の良いハイカーがいなかったこともあり、やむを得ず貧乏ハイカーにとっては高級なツインルームにひとりで泊まり、寂しい夜を過ごしたのだった。

路肩に5分ほど立っていると、ちょうどハイカーをトレイルへ送迎しているアウトドアショップの店員が僕を見つけて停車した。ピックアップトラックの荷台にはすでに沢山のハイカーたちが体を丸めて座っているが、やはりそこには知った顔はいない。僕はその間に体を滑り込ませて、できるだけ体を小さくする。

クルマは30分ほど走ると、アパラチアン・トレイルに繋がるニューファンド・ギャップに着いた。この峠はガットリングバーグの街並みが一望できる観光地になっていて大きな駐車場があり、そのスペースはほとんどクルマで埋まっていた。

  • ピックアップトラックの荷台はパンパンだ。

  • ニューファンド・ギャップのトレイルマジックの様子

僕が足早にトレイルに戻ろうとしたその時、「スケッチ!」と呼ぶ声がして足を止めた。声がした方向を振り返ると、そこには長身のカナダ人女性ハイカーのマンゴーと仲間たち5人がいた。

彼女たちと出会ったのは1週間ほど前で、少しの間、僕は彼女たちと一緒にハイキングをしていた。今回のトレイルで初めて親しい仲間ができたと思っていたのだが、僕が彼女たちよりも歩くスピードが速かったため、ペースを合わせることができずに3日前からひとりで先に進んでしまっていた。

「ちょっと待てよ」と思う。彼女たちが今から街に向かうということは、僕はたった3日間で彼女たちが歩く1日ぶん多く歩いたということだ。

僕は悲しくなってきた。つまり、これまで通りのスピードで歩けば、次第にこの差は広がり続けて、もう一生彼らとは会うことはないのだ。僕は重たく暗い気持ちで彼らが嬉々としてヒッチハイクをする光景を眺めるしかなかった。

  • これから街に向かうマンゴーたち。僕の気持ちとは裏腹にとても楽しそうだった。

これが僕のトレイルフードさ

ノースカロライナ州とテネシー州にまたがるグレートスモーキー国立公園は広大で、面積は2,110km² にも及ぶ。1万種以上の植生がある豊かな自然が有名で、年間1000万人近くが訪れるアメリカ国内で最も入場者が多い国立公園だ。ATスルーハイカーたちは、まずはこの地にたどり着くことを楽しみに歩いている。

僕がグレートスモーキー国立公園に入ったのは1週間ほど前だった。トレイルは綺麗に整備されていて、所々飛び出している木の根にさえ注意すれば足元は全く快適である。整地された箇所以外は背の高い木々、そして地面は草花が生い茂っていて、どこを見ても緑色に囲まれている。
トレイルは小さな丘を越え続けるためにアップダウンが激しく、そのうえに東海岸の暖かく湿った空気が体を汗で濡らしていた。

「まるで日本の梅雨だな。」

その気候は僕がよく知っている日本の夏にそっくりだった。

  • 緑に囲まれたグレートスモーキーマウンテン。

  • この白いペンキがATのサイン。要所要所にあるので迷うことはまずない。

アパラチアン・トレイルの道標のサインである木に塗られた白いペンキを追って歩いて行く。サインの距離が近いのでまず迷うことがなく、地図を見る必要もない。周囲はやはり木々が密集していて、少し高い丘を登っているはずなのに展望はなかった。見上げると蜘蛛の巣のように張り巡らされた枝の隙間から、黒く憂鬱そうな雲が流れている。

もうすぐ雨が降るのかもしれない。

僕はヒップバックからiPhoneを取り出して、GPS地図アプリの”Guthook”を立ち上げる。画面には簡易な地形図にアパラチアン・トレイルの線のみが表示され、その上に僕の現在地を指す青い点が灯り、そしてその先のシェルターやテント場、水場などが点々と表示されている。

  • 雨が多いATでは、ハイカーたちの衣服がカラッと乾くことはなかなかない。

アパラチアン・トレイルの気候は気まぐれで、ふと思い出したかのように雨が降ったり、晴れたりする。すでに全身が汗でぐっしょりと濡れていたが、それでも雨を浴びるのは嫌だった。時計を見ると時刻は午前11時43分、急いで次のシェルターまで歩いて、ランチをしながら雨をやり過ごすことに決めた。

所々に飛び出る木の根に足を捉われないように気をつけながら、僕はトレイルを急いで歩く。次第に空は暗くなり、大気が嫌な重さをおびてきた。雨が今にも降り出しそうだ。

アパラチアン・トレイルから脇に逸れるトレイルが現れる。脇道を3分ほど行くとテントが5、6張り立てられそうな広場が現れた。中央には焚き火をするためのファイヤーピット、そして少し離れたところに木造のシェルターが建っている。そして、中には既に3人のハイカーの先客がいた。シェルターは雨が防げることはもちろん、大抵水場が近く、トイレが併設されていることも多いので、昼頃にはハイカーが集まってくる。

彼らに「やあ、調子はどうだい?」と声をかけると、メガネをかけたブロンドの女性ハイカーが「良い感じよ」と明るく返した。

3人ともやはり初めて見る顔だった。歩く速度を上げてからの1週間、僕はハイカーを追い越し続けているので、常に知らないハイカーと出会っていたので不思議ではない。

僕のハイキングの食事スタイルは2015年にパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)をスルーハイクしたときから変化し続けていた。

PCTを歩いた時は、兎にも角にも食費を安くすることだけを考えていた。アメリカのトレイルフードでいちばん安価なものは間違いなくインスタント袋麺の日清食品の『トップラーメン』と東洋水産の『マルちゃんラーメン』だ。どちらもアメリカ用に生産されていて、味も日本のものとは全然違い、チキンフレーバー、オリエンタルフレーバー、チリフレーバーなど味付けの種類も豊富だ。どちらかと言うと美味しくはないのだが、1袋が20円ほどで、かつどこでも買えて、軽い。資金が乏しいハイカーたちは馬鹿のひとつ覚えのように黙々とラーメンを食べ続ける。

  • 貧乏ハイカー飯の定番、袋ラーメン。PCTではこればかり食べていた。

  • PCTでストーブが壊れて水でクノールのチーズ味ライスを戻した。あまりのまずさにこれ以降この味は食べれなくなった。

僕は朝はスナックを齧り、ランチにラーメンをふたつ、ディナーにクノールの120円ほどのパスタを食べて過ごしていた。かなり安上がりで腹も膨れるので何も考えずに食べ続けていたが、5か月ほど続けていると驚くほど痩せ始めた。とくに上半身の筋肉が無くなり、バックパックのショルダー部分が薄くなった肩に当たって出血していた。その頃からときどき貧血が起こるようになり、PCTを歩ききってカナダのバンクーバーにたどり着いた頃には病人のように痩せ細っていた。まさしく身を削るような旅になってしまった。

そのことを反省し、2017年にコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)をスルーハイクした際は歩きながら肉体を強化して、なおかつ安価な食べ物を模索し始めることとなった。と言っても、求める栄養素全てをトレイルで確保し続けることは難しい。マウンテンハウスなどのブランドは美味しく栄養価の高いトレイルフードを販売しているが、これらは1食分が8ドル近くするので、半分ホームレスのようなスルーハイカーたちにはなかなか手が出せない代物だ。ゆえにハイカーたちはスーパーで安価で軽量な食材を探し、工夫して食べるしかない。

その結果、僕は常に安定して手に入れることができるトルティーヤ生地もしくはベーグルに、チーズ、サラミ、マヨネーズを挟む食事法に行き着いた。流石に値段はラーメンよりも張るが効果は想像以上で、歩けば歩くほど体力がついていった。そして、水を使わない調理の思わぬ副産物として、水の重量、調理時間、そして水場の環境の良し悪しから解放されて、ハイキングがより気楽になった。

僕のトレイルフードを巡る旅はこれにて完結した……かのように思えたが、このアパラチアン・トレイルではさらなる進化を遂げることになったのだった。

  • アメリカで有名なトレイルフードのマウンテンハウス。とても高価なので僕はハイカーボックスから拾った時にしか食べない。

  • CDTで辿り着いたトルティーヤでとにかくタンパク質豊富な食材を巻いて食べる食事法。

ハイカーたちがランチしているテーブルにZパック製のキューベンファイバーの大きな食料袋を置いてランチの用意に取り掛かる。袋から今日の食材をテーブルに並べていく。

「ちょっと、何よそれ!」

先ほど挨拶を交わした女性ハイカーが叫んだ。

「これかい? これが僕のトレイル・フードさ。」

彼女が驚いたのも無理もない。僕が取り出したのが生卵だったからだ。

「あなた、これをトレイルで食べてるの?」

彼女は信じられないといった感じで目を見開いてこちらを見ている。彼らの好奇心を刺激したのを感じて、僕は少し嬉しくなった。

amazonで買った1300円の25gの中華製チタンストーブをガス缶に取り付け、そこにロータスの650mlのアルミクッカーを乗せる。クッカーの中に油をたらすと、卵を3つ割ってから手早くそこにチーズを千切って投入する。そして、小さなフライ返しでかき混ぜると、あっという間にスクランブルエッグが完成する。あとは塩と胡椒を少し多めに入れて味付けする。

そしてフリスビーの上にベーグル2つを開いて並べ、ハムをのせた後にスクランブルエッグをトッピングする。スーパーにある無料の小袋に入ったケチャップをかけてとじると、エッグサンドのできあがりだ。

  • 生卵は専用のケースに入れていた。油はオリーブオイルを使用。

  • ハムエッグベーグル、クリームチーズ添え。見た目はよろしくないがとても美味しい。

呆気に取られているハイカーをよそ目に、今度はチタンカップで湯を沸かして、スターバックスのインスタントコーヒーを溶かす。本日のランチの調理時間は約10分程。

「くそ! これは美味そうだな。」

ラーメンを食べていた男性ハイカーが呟いた。

「そうだろ? これがいちばん安くて美味しいって気がついたんだよ。」

久しぶりにハイカーと天気やトレイルの情報以外の会話をした気がする。僕はとても上機嫌になった。実際、この料理は驚くほど安価だ。6個入りの卵が1ドル、チーズも24枚入りで1ドル、ベーグルは6個で5ドルほどだ。

この食事はアパラチアン・トレイルの補給期間の短さが可能にしている。3日間ほどの縦走ならば、生の卵が腐ることはない。そしてその日数ならば、多少荷物が重くなろうとも、安くて栄養価が高く美味しいなら、そちらの方が良いに決まっている。さらにスルーハイク中にトレイル上で料理をするという行為は僕にとって新しい経験であったし、ゆっくりと食事をしながら、ただただ続く森を眺めて過ごす時間が1日の楽しみのひとつになっていた。

できあがったエッグサンドを頬張る。卵の甘みとハムの塩気がちょうど良い。ハイカーたちが食事のこと、そして僕が過去に歩いたハイキングのことを矢継ぎ早に質問してくれるので、そのやり取りが食事をさらに楽しく幸せなものにしてくれた。

ふと、会話が途切れたので、残ったコーヒーをすすりながら空を見上げる。依然として暗い雲が覆っていて、今にも雨が降りそうだ。いっそ大雨が降って、ここでハイカーたちと雨宿りしながらもっと話ができたら良いのに。そんなことを考えながら、今度はいつも通り深い森をぼんやりと眺めた。

  • ATの森はどこまでも深い。時にハイカーを優しく包み込んでいるように感じる。

もっとも低いレベルを求める人間たち

5月9日、僕はアパラチアン・トレイルの344マイル地点に位置するテネシー州アーウィンにあるホステル『アンクル・ジョニーズ』に宿泊していた。

ホステルは町外れの川沿いに静かな場所に位置し、敷地内には小さくてボロいコテージがいくつか建ち、そして広い芝の上はテント宿泊者用に割り当てられている。入り口には簡易なショップが併設されていて、その場所はwifiの電波が強いため、まるで磁力に引き寄せられるかのようにハイカーたちがへばりついていた。

僕は久しぶりに何か調理されたものが食べたかったので、ホステルの自転車を借りて、20分ほど離れた市街地に行くことにした。

  • ホステルの自転車を借りる。ちょうどこの時にNETFLIXのドラマ『ストレンジャーシングス』を見ていたので、劇中に出てくる自転車に似ていたので興奮している。

  • レストランのピザはいたって普通の味だった。

街に到着して何気なく入ったピザ屋はとても良い店だった。ピザの味はいたって普通だが、可愛いウェイトレスが暖かい対応してくれるので、ハイカーフレンドリーなのが伝わる。

僕は人の空気に惚れやすい。早くもこの店に愛着が湧いてきてた。ピザとサラダをたらふく食べると、上機嫌の僕はいつもより多めにチップを残し店を去る。可愛いウェイトレスがあんなに優しくしてくれたのはチップ欲しさではなくハイカーフレンドリーだからである。僕は分かっている。

ピザ屋の隣に『ダラージェネラル』があった。この店は日本でいうところの100円均一ショップだ。ほとんどのものが1ドル均一で販売されてるので、僕はハイキング中は可能な限りこのお店で補給を済ませる。

もう100回以上『ダラージェネラル』で買い物しているので、買う物はほとんど把握していた。店に入るとショッピングカートを手に取り、チョコバーのスニッカーズ、ツイックスを放り込む。次にグミとポップターツ、クノールのパスタ、チーズ、サラミ、ベーグル、もちろん生卵も入れる。そして宿で食べるポテトチップスとコカコーラとマウンテンデューを2リットルづつ購入して店を出た。あと足りないものは、ホステルに全てあるだろう。

  • 『ダラージェネラル』前でホステルの送迎を待つハイカーたち。女性ハイカー「シックス」はYoutuberというが登録者は数える程。

  • ホステル宛に送った荷物を確認するハイカー。

ホステルに戻ると悪臭放つ衣服を洗濯機に投げ込み、シャワーを浴びた。身体中の汗と泥を流し終えると、ベンチに座りビールを飲みながら滞在しているハイカーたちを眺めて、洗濯が終わるのを待つ。

この場所は先週滞在したガットリンバーグとまるで違う。行き交う人は汚いハイカーばかりだ。なんでこんなに汚い奴らばっかりなのだろう? ハイカーが汚いのは当然だが、ここにいるハイカーは僕も含め、かなりアウトサイダーな雰囲気をまとっている。これまで触れ合ってきたATハイカーは皆がそうというわけではなかった。

このエリアの地図を見てその理由が分かった。何度も言うがアパラチアン・トレイルは街と街が離れていない。スタート時はハイカーたちは補給の勝手が分かっていなかったので、全ての街に降りていた。しかし、1ヶ月が経過しようとしている今、彼らは距離を調整して行く街を選択し始めたのだろう。さらにアパラチアン・トレイルは隣接する街の他に山間のロッヂに泊まる方法もある。ロッヂは高額だが送迎サービスもあり、もちろん綺麗な部屋に宿泊できる。その選択肢も入れるとかなり短い距離に無数の宿泊選択肢があるのだ。

『アンクル・ジョニーズ』はハイカーフレンドリーの素敵なホステルだが、低価格でサービスは最低限。ましてやその中でもテントサイトに泊まる人間は、もっとも低いレベルを求める人間といえよう。つまり、ここは「安さ」、もしくは「ハイカートラッシュ臭さ」を好むハイカー達が自然と集結している場所なのだ。僕の心がゆっくりと気持ち良くほぐされてきたように感じているのは、きっとビールのアルコールのせいだけでない。

衣服を洗濯機から乾燥機に移し、またベンチに戻ってビールの栓を抜く。僕を含めて5張りほどしかテントがない。宿泊者の数からすると、ほとんどがコテージにハイカー同士でシェアして泊まっているようだ。

ビールを飲み干した頃に、テントの持ち主達が買い物から帰って来るのが見えたので、僕は彼の方へ向かう。

「やあ!」

僕は声を掛ける。

「やあ! お隣さんだろ? よろしく! トミーだ!」

20代前半ほどで若くて端正な顔立ちの男性だ。もうひとりは同じ年頃でガッツリとした体のケヴィン。そして活発な印象の女性のアナも一緒だ。彼らにはまだトレイルネームがない。

「なあ、祝ってくれよ。」

「え? 何を?」

トミーの言葉に僕は困惑する。

「今日は俺の誕生日なんだよ祝ってくれよ!19歳になるんだ!」

僕が思っていたより、彼は随分若い。

「なんだって! もちろん祝うさ! とりあえず、おめでとう!」

「ありがとうスケッチ! じゃあ、とりあえず酒でも飲むか。」

「もちろんだよ!」

僕らは輪になって地面に座り込みアメリカの安ビールの缶を開ける。泡がこぼれ落ちないように皆が慌てて飲み口に吸い付く。

ビールはぬるくて、アメリカンビール特有の苦味のない薄い味でまずい。正直なところクラフトビールの方が格段にうまいが、この瞬間はこの安酒でなくてはならない気がした。

ふと、以前に歩いたパシフィック・クレスト・トレイルとコンチネンタル・ディバイド・トレイルでハイカーたちと安宿でまずいビールを飲み交わしてきた日々が脳裏にフラッシュバックした。嗚呼、この感覚を僕は長らく忘れていた。

一同は顔をあげるとニタニタと笑みを浮かべて、各々のタイミングで「誕生日おめでとう!」と叫んだ。

僕らは黙々とビール缶を開け続けた。あまりにも楽しそうに騒いでいたので、コテージのハイカーたちが酒を土産に次々とトミーの誕生会に参加し始めた。そのうちギターを持ったハイカーが現れ、慌ててスーパーでバースデーケーキを買ってきたハイカーも加わった。

僕らは飲み続け、そして大きな笑い声をあげ続けた。もう誰が何の話をしていて、なぜ笑っているのか分からないほど酔っ払っていた。

ここには何ひとつとして特別なものは用意されていなかったが、全てが完璧に揃っている夜だった。僕はハイカーたちを追い越し続けながらアパラチアン・トレイルを孤独に歩き続けるのではなかろうかと、ずっと不安に感じていた。しかし、そんなことは馬鹿らしい悩みだった。

我々スルーハイカー同士は刹那的にでも心を交わせば、それで幸せなのだ。今後はこの様な瞬間的な出会いの連続を楽しみ続ければいいのだ。

アパラチアン・トレイルはすごろくに似ている。良いマス目も悪いマス目もある。その不明瞭さ全てを楽しもう。

そして今、唯一はっきりとしていることは、ここにいる全員の明日のマス目は確実に「一回休め」であることぐらいだ。

【#4に続く】

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