山と道

【暑くて臭くて底抜けに笑うアパラチアン・トレイル】

暑くて臭くて
底抜けに笑う
アパラチアン・トレイル#7

アメリカ東部のアパラチアン山脈沿いに3500kmに渡って伸びるアパラチアン・トレイル(AT)は、「トリプルクラウン」と呼ばれるアメリカ3大ロングトレイルのひとつにして最も長い歴史を持ち、また最も多くの人が歩く、まさに「ロングトレイルの中のロングトレイル」とも呼べる存在です。

2019年、イラストレーターにしてロングディスタンスハイカーのトレイルネーム”Sketch”こと河戸良佑さんが、彼にとって「トリプルクラウン」最後の1本となるATに挑みました。この連載では、5ヵ月に及んだその長大な旅を通じて、彼の覗いたアメリカのロングトレイルのリアルを活写していきます。

ついにゴールとなるメイン州に到達したSketch。かねてから興味のあった釣りとハイキングの融合に挑戦してみますが、果たしてどのような結果になったのでしょうか?

今回もまさにSketchしか書けないリアルなアメリカのロングトレイルのスケッチに、ぜひお付き合いください!

これまでの連載一覧

文/イラスト/写真:河戸良佑

「夕まずめ」を逃すな!

メイン州の山岳地帯を僕は息を上げながら駆けていた。そうしなければ、釣りの好機である「夕まずめ」の時間帯を逃してしまうからである。

2019年8月24日、僕はアパラチアン・トレイルのスタート地点から3053キロの位置にあるニューヘンプシャー州とメイン州の境に到達し、ゴールのカタディン山頂まで残すところ451キロと、順調に歩けば3週間強で到達する位置にいた。

  • ニューヘンプシャーとメインの州境。ちゃんとした標識があるのはアパラチアン・トレイルらしい。

最後の州といえど14回も州を越えたので流石にもう感動などはしない。しかし、これまでのずっと単調だったトレイルからニューヘンプシャー州のホワイトマウンテン国立公園からは標高が上がり、険しくも美しい山岳エリアになることに心躍っていた。

この日は急な勾配を登ったのちに足場の悪い岩場を歩いていた。天候に関して気分屋のアパラチアン・トレイルだが、今日は快晴だ。気温は相変わらず高いが北上するにつれて幾分過ごしやすくなってきている。

  • 美しい尾根を歩きが続くニューハンプシャー州セクション。

  • 禿頭のバルド・プレート・イースト・ロックをスケッチ。

バルド・プレート・イースト・ピークの禿げた山頂まで来ると、メイン州の森が一望できた。遠くに見える高い山脈はきっとニューハンプシャー州のホワイトマウンテン•エリアだろう。少し疲労を感じて、バックパックを背負ったままその場に腰を下ろす。使いすぎてデコボコになったペットボトルをバックパックのサイドポケットから抜き出し、1時間ほど前に濾過しておいた水を飲む。アパラチアン・トレイルは水場が豊富なので、大量の水を背負う必要がない。水を節約することを考えなくて良い点はとても気楽だ。

眼下に広がる深緑の海原とそこに優しい波のように隆起している山々をのんびりと眺める。それはずっと先まで続いて、やがて1本の線になった。よくぞ歩いてこんな所まできたものだ、と感慨深くなるのは2015年に初めてPCTを歩いた時から変わらない。純粋な継続、圧倒的な時の浪費こそがロング・ディスタンス・ハイキングの本質なのではなかろうか……そんなどうでも良いことを考えていると、体が冷えてきたので再び歩き始めることにした。

もうこの山を下ってしまえば本日のハイクは終わりだった。8キロ先にハイウェイが走っていて、ここから東南へクルマで40分ほどの距離にアンドーバーの街がある。僕はアンドーバー郊外のヒューマン・ネイチャー・ホステルに宿泊することを決めていた。

  • バルド・プレート・イースト・ピーク山頂からの眺め。振り返って「よくぞここまで歩いたのだ」と全てのハイカーたちが思っているに違いない。

  • 湿地の上には木の板がハイカーのために並べられていた。

2017年にコンチネンタル・ディバイド・トレイルを歩いたときに出会った友人ラフィキはニューハンプシャーに住んでいた。インスタグラムで僕の動向を知っていた彼は「是非遊びにきてほしい」とメッセージをくれたので、僕はウッドストックという街に三日間滞在して彼と恋人と大きな飼い犬と一緒に過ごした。そして別れるときに「アンドーバーよりも少し先の郊外にあるヒューマン・ネイチャー・ホステルがATで最高の宿だ」と勧められていた。ホステルのホームページを見るとハイカーをトレイルから宿まで送迎するサービスをしていて、それは朝の9時と夕方の17時とあった。到着まで時間の余裕があるのに僕が急いでいたのは、ハイウェイのすぐ横にちょうど釣りができそうな小川が流れているのを地図で見つけていたからだった。

アメリカで魚を釣らねばならぬのだ!

  • トレイルに近い小川。このような川がメイン州には無数に流れている。

ハイウェイから100メートルほど手前に名もなき小川は緩やかに流れていた。川幅は4メートルほどで見たところ水深は1メートル前後のようだ。小川の脇の森に分け入り、トレイルから見えないことを確認すると、バックパックを下ろしてシューズと靴下を脱いでハイキング用のサンダルに履き替え、パタゴニアのテンカラ竿とポケットサイズの小さなタックルボックスを取り出す。

  • 1ヶ月ほど履いたトレイルランニングシューズ。ここで最後の一足に交換する。

  • パタゴニアのテンカラ竿。この時は全く使い方を知らない状態だ。

ニューヘンプシャー州最後の街ゴーラムで、僕はアパラチアン・トレイル最後のギア調整をしていた。メイン州の寒さと湿気を考慮して化繊のジャケットを購入し、穴が開いてボロボロになったシューズを新しいものに交換した。そして8.6フィート(2.6メートル)のパタゴニア製のテンカラ竿をカリフォルニアに住む友人に送ってもらっていた。

僕はアメリカのトレイルで魚を釣ってみたいと常々思っていた。地元神戸の海で釣り楽しんでいたこともあるが、それよりもパシフィック・クレスト・トレイルのJMTセクションでゴールデントラウト釣りを楽しんでいたハイカーたちの姿を忘れられなかったからだ。

なぜ、スタート地点からテンカラ竿を持って歩かなかったかというと、単純に優先順位が低かったからだ。僕はトレイル上でなんでもやりたいし、なんでも運びたい人間であるが、自らの活動対する優先順位を設けていて、ひとつのことがクリアできたら、次の目標に向かうことにしている。今回の最優先事項は1シーズンでアパラチアン・トレイルの全行程を踏破すること、そして次に日々絵を描き続けることだ。それらがやっと問題なく遂行できるようになり、ついに釣りという新しい遊びに着手することができるようになった。

テンカラは実にシンプルな釣りでハイキングと相性が良いとされていた。1本の長い釣竿の先にまず重量のある道糸を竿と同じ長さほどつける。そして、その道糸の先に軽くて細いハリスを1mほど足して、最後に魚が餌としている昆虫を模した毛鉤を結ぶ。竿は良くしなるので、その反発力と道糸の重さを使って鞭のように動かし、最後はふわりと水面に落下させる。

しかし、これは先日、ネットで得た情報でしかなく、実際どのように魚が釣れるのか、そもそもアパラチアン・トレイルにどんな魚が生息しているのかなど全く理解していなかった。

釣りの用意が終わると、足音で魚が逃げないように少し川から離れて上流を目指す。5分ほど進んだところで少し開けてたきたので、そっと川に近づいた。鼓動が速くなり、少し息苦しい。どうやら僕はとても興奮しているようだ。

ゆっくりと竿を後ろに倒し、そして前にヒュッと振り抜いた。釣糸は空中で美しい弧を描き、最後に毛鉤が優しく着水した……はずであったが、実際はそのようにはいかず毛鉤が無惨にも頭上の木の枝に巻き付いて、木の葉を数枚散らせただけだった。

背伸びをして枝を引き寄せ、絡まった糸を解いて、今度こそはと竿を振るが、今度は服に毛鉤が刺さってしまっている。想像以上に難しい。魚がいるのかどうか思案している場合ではなく、水面にこの毛鉤を送り込むことすらままならない。

  • 一体どこに投げればいいか分からない。とりあえず手当たり次第に投げ続ける。

  • シューズは濡らしたくないので、サンダルで川を遡上する。しかし、とても滑るので危ない。

それから悪戦苦闘すること1時間程、ようやく何とか前方に投げることができるようになってきた。木の枝に引っ掛けないように、慎重に竿を振る位置を確認して、最小限の動きで毛鉤を飛ばす。決して綺麗な釣糸の動きではないが、それでもちゃんと前に飛び、ふわりと毛鉤が着水した。

しかし、ここからどうしたら良いのか全くわからなかった。フラフラと流れる毛鉤を眺めるしかない。何度か同じことを繰り返したが、全く釣れる気がしない。そもそも釣り方が間違っているのかもしれないし、ここには魚がいないのかもしれない。

気持ちを切り替えるようにさらに上流へ向かった。今度は朽ちた木が何本か川に倒れ込んでいて、少し複雑な流れになっている。魚は物陰や水の流れが変化するところを好むように思えるので、流れが淀んでるポイントにキャスティングを試みるが、先ほどまでまともに前へ飛ばすことすらできなかった素人が意図している箇所に毛鉤を落とすことなどできるはずもなかった。

それでも諦めずに投げ続けていると、水流が変化して水面が少し波打っている箇所に毛鉤が落ちた。やっとちゃんと投げることができた! と感動していた瞬間、毛鉤の下から魚の頭が持ち上がりポコン! と小気味良い音を鳴らして、毛鉤と共に消えていった。ほんのコンマ何秒の世界だったが、はっきりとその様子を捉えることができた。僕は惚けた様子でその光景を眺めていたが、少したってから慌てて竿を持ち上げる。しかし帰ってきたのは濡れた毛鉤のみで、そこに魚はついてなかった。

さらに上流へ行くと小さな滝の下に水の溜まりがあった。周囲に木も少なく竿が振りやすそうだ。集中してできるだけ遠くに投げる。道糸が着水した後に、遅れて毛鉤がポトリと落ちる。その瞬間、魚が勢い良く飛び出してきた。針を魚の口にかけるため慌てて竿を立てる。果たして魚はかかったのだろうか? 不安に思っていると、竿先がググッとしなり、そこから確かな生命感が伝わる。釣れた! 僕は慌てて竿をさらに上げて魚を寄せ、そのまま岸に。13センチほどの小さな魚は岩の上で体をくねらせている。慌てて近寄り手で掴むと、濃緑の背中に黄色い腹、そして側面に小判のような燻んだ緑のパーマークが並び、ところどころに黄色とオレンジの斑点が綺麗に散っている。このような魚種は日本で見たことがなかった。あまりに小さいので、針を外すと手から滑り落ちて川へ帰っていった。興奮のあまり、手が震えていた。

  • 記念すべき一匹目。とても小さいが美しい。僕はこんな模様の魚を知らない。

もう1匹……と思ったが、ふと時計を見ると、そろそろ戻らねばピックアップに間に合わなそうだ。名残惜しいがここで潔く撤収することにした。

予定の時刻より30分早い16時30分にハイウェイへ戻ったが誰もいなかった。僕は先ほどの釣った魚の写真をスマートフォンで眺めながら、のんびりと迎えを待つ。大きなバンがやってきたのはそれから1時間以上後だった。

「ヘイ! 他にハイカーはいるかい?」

テンガロンハットを被ったヒゲモジャの大柄な男性がクルマから出てきて言った。

「いや、僕しかいないみたいだね。ヒューマン・ネイチャー・ホステルの人だよね? 今日って宿泊できます?」

「もちろん。ベッドはたくさん空いてるさ。じゃあ、もう行くか。乗りな!」

僕が助手席に乗り込むとすぐにクルマは発進して、荒れた道を走った。

「俺はユーコン、ホステルのオーナーだ。よろしくな。」

「僕はスケッチ。日本から来ました。こちらこそよろしく。」

「ところで、お前が持っていたのってテンカラだろ?」

どうやら、バックパックに挿していた竿に気がついたようだ。

「そうですよ! よく気がついたね!」

「やっぱりな! 俺は釣りがすごく好きなんだ。正確にはハンティング全般なんだがな。」

彼はこちらをギラリと光る目で見て笑った。

「実は全くのビギナーなんだよ。さっき初めて1匹釣ることができたんだ。」

「そりゃめでたいな。」

「緑色でオレンジの斑点がある魚なんだけど。」

「きっとブルックトラウトだな。この辺だと良く釣れるよ。」

「小さかったけど嬉しかったよ。ユーコンは何か大きい生物をつかまえたことある?」

彼は髭を触りながらニヤリと笑った。

「ワニだな」

「ワニ……?」

「俺はアフリカで裸で生活してワニを殺して食べたことがあるんだ。」

アメリカンジョークの類なのだろうか。僕には何を言ってるかよく分からなかった。

「俺はTV番組に出たことがあるんだ。『ネイキッド・アンド・アフレイド』っていうのだけど、知ってるかい?」

「ああ! あの番組!」

『ネイキッド・アンド・アフレイド』は出演者が全裸で過酷な自然に放置されて、その後は自力で生き延びなければいけないリアルドキュメンタリー番組で、僕もYouTubeでいくつか見たことがあった。ユーコンはその出演者だったのか。どうやら彼は番組出演後にその資金等を使い自分で宿泊施設を建設したらしい。そこにハイカーたちが集まってきたそうだ。

  • ホステル内を案内するユーコン。

  • ヒューマン・ネイチャー・ホステルでくつろぐハイカーたち。

彼に番組の話を聞いているとすぐに到着した。彼のホステルは多面的なドームテントのような形をした木造建築で、とても個人で製作した建造物には見えない。広いリビングがある一階から地下に降りると、そこが宿泊者の相部屋になっていて、2段ベットが10組ほど並んでいる。

すでに9人のハイカーが宿泊しており、広い敷地内で談話したり、インターネットを楽しんでいた。半数ほどはすでに見知ったハイカーだ。このホステルはランドリー、ホットシャワー、Wi-Fi、スナック、街やトレイルへの送迎など、ハイカーに必要なものは完璧に揃ってた。そして清潔であったし、何より1泊30ドルと安い。友人ラフィキが絶賛するのも頷ける。

僕はベッドに荷を下ろし、すぐにシャワーを浴びて体の汚れを落とす。熱いシャワーを浴びながら目を瞑って、釣り上げた魚のことを思い出すと、その時の記憶が鮮やかに脳裏に蘇ってきた。僕はいてもたってもいられなくなって、そそくさとシャワーを終えてベッドに戻り、スナック菓子とコーラを飲みながらテンカラ釣りの方法をインターネットで調べる。

いくつかのページと動画で黙々と調査していたが、久しぶりの柔らかい寝床の上で気がつけば眠りに落ちていた。

ハイカーは釣りをして何を得る?

「よお、スケッチ、今日トレイルに戻るのか? 戻らないだろ?」

パンケーキにたっぷりとメイプルシロップをかけていると、ユーコンが話しかけてきた。

「いや、まだ決めてないけど……なんで、戻らないって言うのさ?」

「お前はそんなストイックなハイカーじゃないだろ。」

確かに今から急いでパッキングをして、トレイルに戻るのは面倒臭い。そもそも次のセクションまでの食糧すら調達していないから、出発はすぐにはできない。そんなことを考えると、いよいよ本日は何も歩かないゼロ・デイしてしまおうという気持ちが強くなってきた。

この場にいるメンバーも全くトレイルに戻る気配がない。確かにこんなに良い場所は他にはなかなかないし、何よりもアパラチアン・トレイルでこの後に宿泊できそうな場所といえば、2つほどしか残されていないのだ。せっかくならば良い場所でのんびりと楽しみたいと、ハイカーたちは思っているに違いない。

その日は市内のスーパーマーケットに買い出しに行き、その後は外でハイカー達とのんびりと過ごした。

  • アパラチアン・トレイルも終わりに差し掛かり、残っているハイカーたちもクセが強くなってきた。

翌朝、ユーコンに送迎されて僕は数人のハイカーと共にトレイルに戻ってきた。最初のうちは皆と歩いていたが30分もすればそれぞれが自分のペースで歩き始め、姿が見えなくなっていた。

僕はアパラチアン・トレイルの地図アプリを開いて水場を確認した。地図アプリにはポイントの写真とハイカー達の投稿が随時更新され表示されるようになっている。僕は水場の写真と水量をひとつひとつ確認してどこで釣りができそうか確認した。これから歩くメイン州は湖が多い。そして、そこへ繋がる川が網目のように巡っている。これは楽しくなりそうだ、と僕は興奮を抑えられずにいた。

それからの日々は釣り中心になっていった。魚は明け方に活性が上がるので、薄暗い時間からハイキングをスタートして、ちょうど良い規模の川を見つけると竿を振り続けた。メイン州の北に進めば進むほど、面白いようにトラウトが釣れた。それもそのはず、わざわざトレイルヘッドから3、4日かけて歩いて名も無い小川で釣りをする物好きはいない。だから魚達は人をそれほど警戒していないのだ。

  • オフトレイルを釣竿を持って歩くとかなり疲労が溜まる。

  • このサイズのブルックトラウトは頻繁に釣れる。

ハイキングをしながら釣りをしていくうちにわかってきたことがあった。それは、釣りとハイキングは恐ろしく相性が悪いということだ。もともと、相性が良いと考えていたので、これは衝撃だった。

トレイル上で釣りをしようと思ったきっかけは、大自然を楽しみ尽くしたい、という大雑把な憧れであったのだが、そもそも釣りという行為はそんなに生やさしいものではなかった。真剣に魚を獲る、という姿勢が必要であるし、その為にはちょろっとトレイルの脇から30分だけなんて軽い感じではなく、それなりにある程度の時間を確保しなくてはならない。

加えて、体力の消耗である。テンカラ釣りの場合、基本的に下流から上流に向かって歩きながら釣りをする。なぜなら魚は上流を向いて泳いで流れてくる餌を待っているためで、下流から近づかないと存在を気づかれて逃げてしまうからだ。そのため、足場の悪い川を遡上しなくてはならない。

計画通りにアパラチアントレイルを最後まで歩き切るには1日に35キロづつ歩かないといけないが、そこにさらに釣りで遡上する距離が加わるので、それまで以上に体力が必要となった。

しかし、釣りをする利点もあると考えていた。釣った魚を食べることで良質なタンパク質を摂取できる。限られた食糧しか運べないスルーハイカーにとってこれは大きな恩恵である。だがしかし、実際は全くもって違っていた。

  • 魚を捌くのは好きなので、小さなナイフでもとくに問題はない。

  • ブルックトラウトのオリーブオイル炒め。素朴な味がする。美味しいが力は湧いてこない。

基本的に小型の魚ばかり釣れていたのだが、たまにある深い落ち込みには中型のトラウトが潜んでいることが多く、25センチほどだが力強い引きは体を痺れさせるものがあった。釣り上げると、食べるためにエラを切って血抜きをして、それから腹を裂いて内臓を取り出す。最後に骨に沿って切り分けて3枚におろす。僕はこの時、刃渡り5センチほどのビクトリノックスのナイフしか持っていなかったので、なかなか難しかったが、できないことはなかった。

しかし、問題はここからで、生の魚をジップロックに入れて運ぶ気にはならず、その場で食べるしかない。いそいそとクッカーを取り出し、オリーブオイルをひいて軽く炒めて食べると、味は美味いが2分ほどで食べ終えてしまうのだ。そして、あまり空腹でない時も多いのでそれほど食料を確保した喜びが感じられない。なので、釣った魚を食料としてカウントすることは難しかった。もし食べるときはちょうどテント場から歩いて行ける場所で釣った時、かつ焚き火ができる場所でのんびりと塩焼きできるときくらいた。しかし、ここは雨の多きアパラチアン・トレイル。乾いた枝を確保できる機会は本当に少ない。

僕らにとってハイキングとは?

9月9日、僕はアパラチアン・トレイル最後の街マンソンに到着した。街の小さな食料品店に併設されたカフェスペースでコーヒーを飲みながらスマートフォンを充電してのんびりとしていると、ドアのベルがカランカランと鳴った。店に入ってきた長身の男性は、親友のマタドールだ。

「やあ、スケッチ! おめでとう! ほとんど終わったな!」

「ほとんど、だけどね。でも、ありがとう。」

「これでお前もトリプル・クラウナーさ! この先はウイニングロードみたいなものさ!」

確かにそんな心持ちではあった。この先、僕がアパラチアン・トレイルのスルーハイクに失敗する可能性は限りなく低い。僕らは再会を祝うためにビールを買って店をあとにする。店の前にはマタドールが新しく購入したキャンピングカーが停車していた。僕に会うために来てくれたはずだが、実は新しいクルマで気ままに旅行がしたかっただけなのかもしれない。

  • マタドールと久しぶりの再会。日本のガレージブランドUNJOEの財布を欲しがっていたので、プレゼントする。

  • 彼の新しい車はすぐに僕の汚い荷物でちらかった。

「今日は俺の新居でパーティーだ。」

僕らはマタドールのキャンピングカーに乗り込み、トレイルヘッドの駐車場に移動した。ここにはトイレもあるので、快適に過ごせるだろう。

まだ日が高いので、僕らはアパラチアン・トレイルの脇道を歩いて滝を見に行くことにした。20分ほど進んだところに3メートルほどの小さな滝があり、僕らそこでビールを飲み再会を祝った。

僕はもちろんテンカラ竿を持ってきていたので、ビールを飲みながら釣りを始める。何度か毛鉤を投げるが、全く反応がない。僕は諦めて水面を眺めながら新しいビールを手を伸ばす。その時、マタドールがポケットから小さな縦笛を取り出して吹き始めた。上手ではないが、自然の中で聞く音色は心地良い。

  • 滝の前で笛を吹くマタドール。

「その笛どうしたんだい?」

「最近、手に入れてさ。これってすごく軽いんだよ。これからトレイルで笛を練習しようかなって思ってるのさ。」

「いろいろ忙しいな。」

「スケッチに言われたくないさ。」

彼はまた笛を吹き始めた。滝の騒がしさの隙間を縫うように笛の音が舞っていた。その音を聞きながら僕は「ハイキングを通して僕らは何がしたいんだろうか?」と考えた。しかし、いくら考えても答えは出てこない。

僕らスルーハイカーにとってハイキングは呼吸をするように当たり前の行為だ。一箇所にはとどまらず、ひたすらに終着点を目指して歩き続ける。僕は終着点にはただモニュメントがあるだけで、その先に何も輝かしいものが無いことを知っている。しかし、トレイル上に身をおいて、笛を吹いたり、釣りをしたり、絵を描いたり、ハイカーと心を通わせたりすることは、僕の人生には必要でとても美しい時間だということも知っていた。

その時間があと少しで終わろうとしている。僕はこのまますんなりとトレイルの幕を閉じて良いのだろうか、と不安になった。

その不安を掻き消すようにビールを煽り、マタドールのたどたどしい笛の音に耳を傾けた。

#8に続く

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